第46話 ちらほら増えてきた日本人患者
東京・京橋の田中製造所での『暗視野顕微鏡』の商談を大成功に収め、俺と結さんはホクホク顔で横浜へ帰還した。
これで、メアリーさんや小泉ハナさんに、俺のチート級オーパーツ顕微鏡を見せずに、正々堂々とスピロヘータ(梅毒トレポネーマ)を観察させることができる。
医学の歴史を少しだけ早回しする、俺の壮大な計画の第一歩だ。
だが、屋敷に戻ると、俺を待ち受けていたのは相変わらずの日常だった。
玄関を開けるなり、目に飛び込んできたのは、ソファで股間を押さえながらうめき声を上げている見知らぬ白人男性と、流暢な英語で彼を怒鳴りつけているメアリーさんの姿だった。
「だから言ったでしょう!
清潔に保ちなさいって!
あなたたちの不衛生な遊びが、この病気を広めているのよ!」
「オーウ、ドクター・メアリー……プリーズ、あの魔法の注射を……」
……やれやれ。
俺の屋敷(間もなく病院として移転するが)に治療を求めてやってくる患者は、一向に途絶える気配がなかった。
最近では、鈴屋さんはじめとする地元の小妓楼からの患者は、俺のペニシリン治療と定期健診の徹底により、パタリと見かけなくなっていた。
彼女たちの間で梅毒のパンデミックは完全に抑え込まれ、横浜の夜の街はかつての平穏(?)を取り戻しつつある。
だが、その代わりに激増したのが、相変わらずの「欧米からの船乗りや商人」と、そして最近になって急激に増え始めた「日本人のお偉いさん」たちだった。
「一様、お帰りなさいませ。今日もお三方、お待ちになっておりますよ」
小泉ハナさんが、カルテ(のようなメモ)を手に、少し困ったような笑顔で出迎えてくれた。
「お疲れ様、ハナさん。
その『お三方』っていうのは……」
「はい。鍋島侯爵様からのご紹介状をお持ちの、東京の華族様方ですわ」
俺は小さくため息をついた。
俺の梅毒治療の噂は、ついに東京のやんごとなき方々の耳にも届いてしまったらしい。
鍋島侯爵夫妻や、結さんを通じての紹介ネットワークだ。彼らは皆、丁重な紹介状を持参して、お忍びで横浜までやってくる。
俺は彼らに対しては、ボッタクリ価格ではなく、娼妓たちの治療費の「倍額」という、まあ常識的(?)な金額を提示することにしていた。
というのも、彼ら貴族や財界人たちは、確かにプライドは高いが、端から俺たち日本人を見下すような態度はとらないからだ。
「先生、どうかよろしくお願いいたします」
「お力添えを」と、深々と頭を下げてくる彼らに、アコギな商売はできない。
何より、鍋島侯爵や柳澤頭取の顔に泥を塗るわけにはいかないからな。
「先生、お手数をおかけします。この足のしびれ、なんとかなりませんでしょうか……」
「ああ、典型的な脚気ですね。
大丈夫です、食事療法と特製の青汁で良くなりますよ」
小泉ハナさんに任せている脚気の治療も、すっかり軌道に乗っていた。
だが、問題はやはり梅毒患者だ。
それも、態度のデカい外国人患者たちである。
「ミスター・カネダ!
俺はイギリスの立派な貿易商だぞ!
こんな高額な治療費、ぼったくりじゃないか!」
先ほどメアリーさんに怒鳴られていた白人男性が、今度は俺に食ってかかってきた。
俺は冷たい視線を彼に向けた。
「治療費は、最初に提示した通りだ。
払えないなら、帰ってくれ。
本国で鼻が落ちるのを待つんだな」
「クソッ……黄色い猿の分際で……!」
男が捨て台詞を吐いた瞬間、俺の堪忍袋の緒が切れた。
俺自身への悪口ならまだいい。
だが、この手の連中は、屋敷に出入りしているユキたち孤児に八つ当たりしたり、暴言を吐いたりすることがあるのだ。
「……おい」
俺は低く凄みのある声で男を睨みつけた。
ハードボイルド探偵の凄み、炸裂である。
「今、何と言った?
うちの子供たちに指一本でも触れてみろ。
治療前なら即刻叩き出す。
治療後なら、今の金額の『さらに倍』を請求する。
俺の言うことが聞けないなら、二度とこの敷居を跨ぐな」
男は俺の気迫に押され、顔を引きつらせて黙り込んだ。
結局、彼は震える手で財布から札束を取り出し、大人しく治療費を支払った。
「一様、かっこよかったですわ」
背後から、結さんがクスクスと笑う声が聞こえた。
「いや、かっこいいとかじゃない。
こういう連中には、最初からガツンと言っておかないと舐められるからな」
「でも、本当にひどい方ばかりですね。
きちんとしたお行儀の方なら、あそこまで高額な治療費を吹っ掛けられたりはしないのに」
「自業自得さ。
俺はお人好しじゃない。
できた人間なら、そもそもあんな遊び方をして病気をもらったりしないだろうに」
俺が肩をすくめると、明日香さんとイルサさんも苦笑いしながら頷いた。
「全くだわ。
私たちも、あんな殿方のお相手はもうこりごりよ」
「ミスター・カネダの言う通りです。
病気は防げるものですから」
屋敷の女性陣は、すっかり俺のボッタクリ(いや、正当防衛的)治療費システムに賛同してくれていた。
そんな中、ユキが焼きたてのパンの入ったカゴを抱えて、厨房から顔を出した。
「先生!
今日の分のカレーパン、揚がりましたよ!」
「お、いい匂いだ。
ありがとう、ユキ」
スパイスの香ばしい匂いが、屋敷の中に漂う。
ギスギスした診察室の空気が、一気に和らいだ。
「よし、みんなで休憩にしよう。
小泉さんもメアリーさんも、お茶にしようぜ」
俺が声をかけると、険しい顔でカルテを書いていた二人の女医も、パッと顔を輝かせた。
「わあ、カレーパン!
頂きますわ!」
「オー、ワンダフル!
日本のカレーパンは最高よ!」
縁側に座り、みんなでアツアツのカレーパンを頬張る。
外では蝉が鳴き、遠くから港の汽笛が聞こえる。
態度のデカい外国人患者には頭を悩ませられるが、この穏やかな時間と、カレーパンの美味さがあれば、まあ、悪くない日々だ。
俺の「病院経営者」としての本当の戦いは、もうすぐそこまで迫っていた。




