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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第45話 顕微鏡改造




 横浜から新橋までは、日本初の鉄道である「陸蒸気」で一時間弱の道のりだ。


 車窓から流れる景色を眺めながら、俺の隣に座る結さんは、とてもリラックスした表情を浮かべていた。

 出会った当初、元男爵未亡人という重い過去と、理不尽に夫からうつされた梅毒への恐怖で、彼女の表情は常に暗く沈んでいたものだ。

 だが、俺のペニシリンによって見事に完治し、鍋島侯爵夫人の仲介もあって俺と婚約してからは、その暗さはすっかり鳴りを潜めていた。


「一様、東京へ出向くのは久しぶりですわね」


 結さんが、車窓からの風に後れ毛を揺らしながら微笑む。

 その笑顔は、かつて貴族の令嬢として教育された品格と、今は俺の「家族」としての安心感が同居していて、とても魅力的だった。


「ああ、そうだな。

 病院の準備や外国人患者の相手ばかりで、すっかり横浜にカンヅメになってたからな」


「ふふ。

 でも一様、お屋敷には明日香さんにイルサさん、メアリー先生に小泉先生と……美しい方々ばかりで、お寂しくはありませんでしたでしょう?」


 結さんが、扇子で口元を隠しながら、少しだけからかうような視線を送ってくる。

 うっ。

 痛いところを突かれた。


 確かに、俺の周りは美女だらけのハーレム状態だ。

 明冶の男の甲斐性だと言えば聞こえはいいが、令和の価値観を引きずる俺としては、どこか後ろめたいのも事実である。


「いや、違うんだ。

 あくまで彼女たちは病院のスタッフであって……」


「わかっておりますわ。

 皆様、とても親切で、ユキちゃんたち孤児にも分け隔てなく接してくださいますもの。

 私も、皆様とのお喋りが毎日楽しいのです」


 結さんは、本当にできた人だ。

 貴族の身分を失ったとはいえ、嫉妬や妬みといったドロドロした感情を見せることなく、俺の屋敷の女性陣ともすっかり打ち解けてくれている。


 彼女の懐の深さに、俺は改めて惚れ直していた。

 そんなこんなで、新橋駅に到着。

 そこから人力車を拾い、俺たちは東京・京橋区槍屋町にある「田中製造所」へと向かった。


 ガタゴトと揺れる人力車のシートに並んで座りながら、俺は懐から分厚い手帳を取り出した。


「よし、これが『暗視野顕微鏡』の設計図……というか、構造のメモだ。

 これをどうやって彼らに説明するかが勝負だな」


 俺の持っている令和の最新鋭顕微鏡(AI補正付き)は、この時代の人間には到底見せられないオーパーツだ。


 だが、俺がパソコンの百科事典で調べ上げた『暗視野顕微鏡』の原理は、この明冶二十年の技術力でも、優秀な職人であれば十分に再現可能なはずだった。


 光を斜めから照射し、微細な細菌がその光を散乱させることで、黒い背景(暗視野)に明るく浮かび上がらせる。


 この技術があれば、極細で透明な梅毒トレポネーマ(スピロヘータ)のような細菌でも、特別な染色(色付け)をすることなく生きたまま観察できるのだ。


「鍋島侯爵夫人からの紹介状もあるし、門前払いされることはないだろうが……」


 俺が少し緊張していると、結さんがそっと俺の手に自分の手を重ねた。


「大丈夫ですわ、一様。

 一様のその熱意があれば、きっと伝わります」


「……ありがとう、結さん」


 俺たちは人力車を降り、田中製造所の門をくぐった。

 すでに鍋島侯爵夫人からアポイントメントが入れられていたこともあり、玄関先には、二代目社長である田中大吉氏が自ら出迎えに出てきてくれていた。


 のちの芝浦製作所(東芝)を牽引する、日本のモノづくりの重鎮である。


「ようこそお越しくださいました、金田先生。

 鍋島侯爵夫人より、お話は伺っております」


「お忙しいところ、申し訳ありません。

 本日は、どうしても御社の技術力を見込んで、ご相談したい儀がありまして」


 俺は深く一礼し、結さんを紹介した後、早速商談室へと案内された。

 お茶が出されるのもそこそこに、俺は手帳からメモと簡略化した設計図を取り出し、テーブルの上に広げた。


「田中社長。今、世界中で細菌学という新しい医学の分野が急速に発展しています。しかし、現在の顕微鏡の性能では、透明で極めて細い細菌を『生きたまま』観察することが非常に困難なのです。

 どうしても染色という工程が必要になり、細菌が死んでしまいます」


 田中社長は、俺の言葉に静かに耳を傾け、設計図に目を落とした。


「そこで、この『暗視野』という仕組みを取り入れた顕微鏡を開発していただきたいのです。

 光の当て方を工夫し、背景を暗くすることで、微細な細菌を光の散乱によって浮かび上がらせる……」


 俺のつたない(百科事典の丸写しの)説明だったが、さすがは日本最高峰の技術者だ。

 田中社長の目の色が、みるみるうちに変わっていくのがわかった。


「……なるほど。コンデンサ(集光器)の中央を遮光し、光をリング状にして斜めから照射するわけですか。

 これなら、対物レンズに直接光が入らず、試料によって散乱された光だけを捉えることができる……」


 社長は手元の紙に素早く図形を描き込みながら、ブツブツと独り言を言い始めた。

 完全に職人のスイッチが入ったようだ。


「金田先生、これは画期的なアイデアです。レンズの研磨と光の屈折率の調整は非常にシビアになりますが……我が製造所の技術をもってすれば、決して不可能なことではありません!」


「おお、作っていただけますか!」


 俺は思わず身を乗り出した。


「ええ、ぜひやらせてください。

 完成した暁には、細菌学の発展に大きく寄与することでしょう」


 田中社長は力強く頷いた。

 俺はほっと胸をなでおろした。これで、メアリーさんや小泉ハナさんに、俺の「超絶オーパーツ顕微鏡」を隠しながら、正当な方法でスピロヘータを見せることができる。


「あの、田中社長。

 この顕微鏡が完成した場合の、特許や独占使用権などについてですが……」


 俺が遠慮がちに切り出すと、田中社長は笑顔で首を振った。


「先生、このアイデアは先生のものです。

 我々はそれを形にするだけ。

 もちろん、製造権は頂きたいですが、販売の暁には、売上の一部を先生に『特許使用料』としてお支払いするのが筋でしょう」


「いや、俺は別に金儲けのためにこれを提案したわけじゃ……」


「最近、日本でも専売特許条例というものができましてね。

 これからの時代、アイデアには正当な対価が支払われるべきなのです」


 田中社長の申し出は、非常にありがたいものだった。

 俺は少し考えた後、こう答えた。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。

 ただし、その使用料は、すべて日本の医学の発展のための『研究資金』として、御社でプールしておいていただけませんか?

 いずれ、優秀な研究者を支援するために使いたいのです」


 俺がそう言うと、田中社長も、隣で聞いていた結さんも、深く感銘を受けたような顔で俺を見つめた。


「金田先生……あなたは本当に、私欲のない立派なお方だ」


「一様……」


 いや、単に俺の銀行口座には、すでにボッタクリ梅毒治療費がアホほど貯まっているから、これ以上個人資産を増やしても税金(この時代にあるのか?)とかが面倒なだけなんだけどね……。


 俺は内心で冷や汗をかきながら、ハードボイルドな表情のつもりで静かに頷いて見せた。

 ともあれ、これでまた一つ、俺の「病院経営者」としての、そして「日本の医学を裏から操る黒幕」としてのピースが、カチリとはまったのである。


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