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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第44話 創薬と改築の進行状況



 夏から秋へ、季節の移り変わりと共に、山手の洋館の改築工事は急ピッチで進められていた。

 トンテンカンテンと響く心地よい槌音を聞きながら、俺はふと、自分の立ち位置について考え直していた。


 俺の本来の目的は「もぐりの医者」として荒稼ぎすることではなく、「創薬」でこの明冶の世を生き抜くことだったはずだ。


 鍋島侯爵夫人をはじめ、地元横浜の財界人たちにも「薬の製造と販売で事業を始める」と大見得を切っている手前、病院経営だけにどっぷり浸かるわけにはいかない。


 だが、現実はどうだ。

 毎日毎日、股間を掻きむしりながらやって来る外国人船乗りたちの相手(法外な治療費の請求)と、ユキたち孤児のパン事業の管理、そして病院設立の準備で、俺の時間はほぼ食いつぶされている。


 ペニシリンの製造はイルサさんと明日香さんに手伝ってもらっているとはいえ、肝心の「研究」がおろそかになっているのは否めなかった。


「このままじゃ、ただの成金病院長で終わっちまう」


 俺は危機感を覚え、メアリーさんと小泉ハナさんを屋敷の書斎に呼び出した。


「二人とも、ちょっと相談があるんだが。病院経営と『創薬』の研究部門を、本格的に忙しくなる前に分けられないかと考えているんだ」


 俺がそう切り出すと、二人の女医は顔を見合わせた。


「一様、それは私も賛成ですわ。連日あのような……殿方ばかり診ていては、私たちの本来の知識が腐ってしまいそうですもの」


 小泉ハナさんが、少し辟易したようにため息をつく。

 無理もない。済生学舎で最先端の西洋医学を学んだエリートが、毎日性病の注射ばかり打たされていれば、モチベーションも下がるというものだ。


「ミスター・カネダの言う通りよ。

 今、ヨーロッパでは細菌学の研究がものすごいスピードで進んでいるわ。

 新しいワクチンや治療法が次々と発見されているの。

 私たちも、それに遅れをとるわけにはいかないわ」


 メアリーさんも、青い瞳を輝かせて身を乗り出してきた。

 そうだ。この時代、パスツールやコッホといった巨人たちが細菌学の扉をこじ開け、医学は劇的な進歩を遂げようとしているのだ。


 俺が持ち込んだ「ペニシリン」というオーパーツだけを頼りにあぐらをかいていては、いずれ時代に取り残される。


「そこでだ。俺は研究者が必要だと思っている。

 医者として患者を診る人間と、研究室でフラスコや顕微鏡と睨めっこする人間を分けたい。

 ……ヨーロッパから、優秀な研究者を招けないだろうか?」


 俺の提案に、二人は少し困ったような顔をした。

 メアリーさんが首を振る。


「難しいわね。

 アメリカでもそうだったけれど、日本にまで着て研究しようとする人なんかいませんよ」


「そうですね、もし僅かな可能性を考えるのならば女性の研究者ですか」

「女性が研究職に就くのはまだとてもハードルが高いのよ。

 それに、日本という極東の国まで来てくれる優秀な人材なんて、私には心当たりがないわ」


 やはりそうか。

 キュリー夫人が放射能の研究でノーベル賞を取るのはもう少し先の話だ。

 この時代、女性の社会進出は世界中で分厚い壁に阻まれている。


「一様。それならば、ヨハンさんのような外国の商人の方々に、本国に心当たりがないか尋ねてみてはいかがでしょう?」


 小泉ハナさんの提案は現実的だった。

 オランダ商人のヨハンさんをはじめ、俺はすでに何人かのヨーロッパの商人たちと繋がりができている。

 彼らのネットワークを使えば、不遇をかこっている優秀な人材を見つけられるかもしれない。


「わかった。当分は俺の頭の中にある知識(PCの百科事典のデータ)で薬を作っていくが、人材探しは並行して進めよう」


 俺はそう結論づけ、次のステップへと移ることにした。

 創薬、そして細菌研究において、現在の俺に決定的に不足しているものがある。


 それは『暗視野顕微鏡』だ。

 俺が持ち込んだ令和の最新鋭顕微鏡(AI補正付き)を使えば、極細の梅毒トレポネーマ(スピロヘータ)もはっきりと確認できる。

 だが、こんなオーパーツをこの時代の人間(メアリーさんや小泉さんでさえ)に見せるわけにはいかない。


「この時代で調達できる技術で、スピロヘータを観察できる顕微鏡を作らなければ……」


 俺は再び、万事解決のドラえもん……いや、鈴谷さんの店へと足を運んだ。


「鈴谷さん、手先の器用な、それも最高峰の技術を持った職人を知りませんか?

 できれば、精密機械やレンズに明るい人間が良いんですが」


「はて……精密機械、ですか」


 鈴谷さんは顎を撫でながらしばらく考え込んでいたが、ポンと手を打った。


「先生、それなら東京に『田中製造所』というところがあります。

 あそこの技術力は折り紙付きだと、知り合いの貿易商が言っておりました」


 田中製造所……?

 俺の頭の中で、PCの百科事典のデータがピコーンと検索ヒットした。


 田中製造所といえば、あの「からくり儀右衛門」こと田中久重が創設した工場だ。のちの東芝(東京芝浦電気)の源流となる、日本最高峰の技術者集団ではないか!


「そこだ! そこにコンタクトを取りたい!」


「それでしたら、鍋島侯爵夫人に頼まれてはいかがでしょう?

 夫人は東京の財界にも顔が広いですから、紹介状を書いていただけるかもしれませんよ」


 鈴谷さんの的確すぎるアドバイスに、俺は思わず拝みそうになった。

 すぐに屋敷に戻り、婚約者である結さんに相談する。

 彼女は元男爵夫人であり、鍋島侯爵夫人の元付き人でもある。彼女を通じて夫人に連絡を取ってもらうのが一番確実だ。


「結さん、お願いがあるんだ。東京の田中製造所というところに、どうしても作ってもらいたいものがある。

 侯爵夫人に紹介状を頼めないだろうか?」


「まあ、一様のお仕事の事でしたら、もちろん喜んで」


 結さんは二つ返事で了承してくれた。

 数日後、侯爵夫人から立派な紹介状が届いた。

 これで準備は整った。


「よし、結さん。

 久しぶりに東京へデート……いや、出張に行こうか」


「はい、一様。

 喜んでお供いたしますわ」


 俺たちは新橋行きの汽車に乗り込み、当時、田中製造所があった京橋区槍屋町やりやちょうへと向かった。

 俺の頭の中には、すでに『暗視野顕微鏡』の構造を記した詳細な設計図(百科事典の丸写し)が用意されている。


 待っていろ、日本のエジソンたち。

 俺が、いや、俺たちが、この国の医学の歴史を少しだけ早送りしてやる。



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