第42話 元イタリア外交官のお屋敷
馬車が山手の丘を登りきると、目の前には異国情緒あふれる洋館が姿を現した。
ここが、俺の新しい病院の舞台となる「元イタリア領事館」だ。
そこは、令和の俺でも知っている『イタリア山庭園』と呼ばれる場所のすぐ近くに建つ、ほとんど俺の今の屋敷の「お隣さん」と言ってもいい立地だった。
庭の向こうには横浜港が一望でき、夏の日差しを反射して海面がキラキラと輝いている。
「おお……これはすごいな」
馬車を降りた俺は、思わず感嘆の声を漏らした。
敷地の広さは今の屋敷のほぼ二倍。離れのようなものはなく、一つの巨大な二階建ての洋館がどっしりと構えている。
市の職員がうやうやしく鍵を開け、俺たちはぞろぞろと中へ入った。
玄関ホールに足を踏み入れると、すぐに広い吹き抜けのロビーが広がっていた。
天井からは豪華なシャンデリアが下がり、磨き上げられた木の床が陽光を反射している。
「さすが外交官が公務で使っていた屋敷だけあって、威圧感というより……気品というか、圧みたいなものを感じるな」
俺が天井を見上げながら呟くと、柳澤頭取が満足げに頷いた。
「ええ。各国の要人を招き入れていた場所ですからね。
病院として使うにも、十分すぎるほどの風格かと存じます」
「だが、このままじゃ病院にはならない。
改築が必要だな」
俺はロビーの中央に立ち、腕を組みながら同行している鈴屋さんに視線を向けた。
鈴屋さんは、すでに懐から手帳を取り出し、メモを取る態勢に入っている。
「先生、ご要望をお聞かせください。私どもの懇意にしている職人をすぐに手配いたしますので」
「助かります、鈴屋さん。
……よし、それじゃあ」
俺は屋敷の中を歩き回りながら、頭の中に描いた病院の青写真を伝えていった。
「できるだけこの気品ある雰囲気は壊さないようにしたい。
一階のこの広い部屋は、そのまま待合室と受付に使おう。
二階には、患者のプライバシーを守れる個室をいくつか。
それから、少し料金を高めに設定した『豪華な個室』も必要だ。
トイレ付きでな」
俺がそう言うと、同行していた財界人たちが「おお!」と嬉しそうな声を上げた。
彼らのような金持ち連中にとって、他の患者と顔を合わせずに済む「豪華な特別室」は必須なのだろう。
梅毒治療という性質上、お忍びで来たいという需要は計り知れない。
「それから、一般の患者用の相部屋も数部屋。
日当たりが良い南側には、患者が日向ぼっこできるようなサロンを作りたい。
……あ、そうだ。
感染症対策として、隔離病棟用の集団部屋も一つは確保しておいてくれ」
俺は次々と指示を飛ばす。
「そして一番重要なのが、手術室だ。
一番明るい部屋を選んで、床と壁はタイル張りに改装してほしい。
清潔を保てるようにな」
「タイル張りですか。
承知いたしました」
鈴屋さんが手際よくメモを取っていく。
手術室と言っても、今の俺たちが行っているのはペニシリンの注射がメインだ。
だが、将来的にはメアリーさんが執刀するような本格的な外科手術も視野に入れておかなければならない。
屋敷の下見を終え、大まかな改築の構想が固まると、俺たちは山手を下り、関内にある鈴屋さんの店へと向かった。
今日は、ここでさらに具体的な改築の話し合いを行う予定なのだ。
鈴屋の帳場に通されると、すでに数人の職人たちが集められていた。
大工の棟梁らしきいかつい男が、腕をまくって俺に頭を下げる。
「先生、お話は伺っております。
病院の改築でさぁね。
腕によりをかけてやらせてもらいやす!」
「頼むよ、棟梁。
なにせ急ぎの仕事になるからな」
俺は図面を広げ、職人たちと詳細な打ち合わせを始めた。
彼らはプロだ。
俺の素人くさい要望を聞きながら、「それならこうしやしょう」「壁をぶち抜いて廊下を広くした方が、担架が通りやすいでさぁ」と、次々に実践的なアイデアを出してくれた。
白熱した打ち合わせは、気づけば夕刻まで続いていた。
「よし、現場も見たし、大体の改築プランも決まった。
これで何とかなりそうだな」
俺が大きく伸びをして一息ついた、その時だった。
「先生ぇ〜!
お疲れ様でございま〜す!」
「あら、こんなに大勢の旦那様がたがいらっしゃるなんて!」
ドドドッ!
という足音と共に、鈴屋の奥から艶やかな着物姿の女性たちがなだれ込んできたのだ。
なんだなんだ!?
一瞬あっけにとられた俺だが、よく見れば、彼女たちの中には俺が梅毒の治療を施した、あの時の娼妓たちが数人混ざっていた。
「あの時は、本当にありがとうございました、先生!」
「すっかり元気になりましたのよ!」
彼女たちは俺の周りを囲み、キャッキャと黄色い声を上げながらお酌をしてくる。
どうやら鈴屋さんが、会議の労いも兼ねて、俺と財界の重鎮たちのためにちょっとした「大人の遊び」というか「接待」の場を設けてくれたらしい。
「いや、俺は別に……」
俺が遠慮しようとしたが、重鎮たちはすでにデレデレになりながらお猪口を突き出している。
「まあまあ、先生!
今日はお祝いですぞ!」
「さあさあ、飲みましょう!」
……だめだこりゃ。
完全に出来上がっている。
こうして、真面目な病院設立の会議は、いつの間にか三味線の音が響く華やかな宴会へと姿を変えてしまった。
まあ、たまにはこういうのも悪くないか。
俺は苦笑いしながら、彼女たちが注いでくれた酒を静かに飲み干した。
夜の関内は、今日も賑やかに更けていく。




