第40話 減らない面倒な患者たち
夏の日差しはますます勢いを増し、屋敷の庭に植えた木々からは、これでもかというほど喧しい蝉の声が降り注いでいた。
だが、俺の気分は晴れやかだった。
なにせ、結さんとの約束通り、本格的な「病院」の設立に向けて動き出すと決めたからだ。
パン事業は子供たちに任せておけば、勝手に金を生み出してくれる。俺の時間は、今や自由そのものだった。
……そう、自由なはずだったのだ。
「ミスター・カネダ! どうしても今日中に診てくれないか! 俺の股間が、まるで火を噴く火山のようになっちまったんだ!」
「ノー! 俺が先だ! お前の火山なんて知るか、俺のは今にも爆発しそうなダイナマイトなんだよ!」
ドカドカと玄関先で怒鳴り合っているのは、アメリカから来たらしい巨漢の船乗りと、イギリス人らしき細身だが目つきの悪い商人だった。
二人とも、見るからにその筋の店で遊び呆け、見事に「お持ち帰り」してしまったクチである。
俺はため息をつきながら、縁側から腰を上げた。
「おいおい、ここは野戦病院じゃないんだぜ。ダイナマイトだか火山だか知らないが、順番は守れ。それに、うちは一見さんには厳しいぞ」
俺が面倒くさそうに言うと、彼らは真っ赤な顔をして札束を握りしめた。
「金ならある! 二十倍だろうが五十倍だろうが払ってやるから、あの奇跡の注射を打ってくれ!」
「イエス! あの痛いけど一発で治る魔法のクスリだ!」
……だめだこりゃ。
ペニシリンの即効性は、この横浜の外国人コミュニティの間で、すっかり「魔法の特効薬」として神格化されてしまっていた。
俺がいくら法外な値段(鈴谷さんの時の二十倍、現在の価値で数百万円)をふっかけようが、「本国に帰って鼻が落ちるよりマシだ」と泣きついてくる連中が後を絶たない。
おかげで、彼らのような面倒な欧米からの梅毒患者が、一向に減る気配がなかったのだ。
「仕方ない。メアリーさん、ちょっとこいつらを頼む。英語でたっぷりとお説教してやってくれ。俺はもう、こいつらのイチモツを見るのにはウンザリだ」
「わかりました、一様。……さあ、あなたたち、診察室へ来なさい! そもそも、そんな不潔な遊びをするからよ!」
アメリカの正規の医師免許を持つメアリーさんが、流暢かつドスの効いた英語で二人を怒鳴りつけると、巨漢の船乗りたちもシュンとなって診察室へ消えていった。
俺は再び縁側に戻り、冷たい麦茶をぐいっと飲み干した。
「本当に、減りませんね。あの手の方々は」
隣に座った結さんが、苦笑いしながら俺に団扇で風を送ってくれる。
「ああ。全くだ。あの法外な治療費を払ってでも治したいってのはわかるが、治ったらまたすぐに同じことの繰り返しだ。イタチごっこもいいところだよ」
「ふふっ。でも、一様のおかげで、この横浜から恐ろしい病気が減っているのは事実ですわ」
結さんの優しい言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
そんな荒くれ者たちとは対照的に、日本人患者の診察は非常に平和なものだった。
ごくごく稀に、鈴谷さんや同業の小妓楼から紹介されてくる女性の患者や、知り合いの貿易商からの紹介でやってくる脚気の患者などが来るくらいだ。
脚気といえば、俺がビタミンB1豊富な「特製青汁」と玄米・豚肉中心の食事療法を指導してからというもの、横浜の一部財界人の間で「金田先生の食事療法」がちょっとしたブームになりつつあった。
だが、これらの日本人患者の対応は、すべて小泉ハナさんに任せている。
彼女は済生学舎出のエリート女医であり、物腰も柔らかく、患者からの信頼も厚い。
何より、俺のような「もぐりの医者」が表立って診察するよりも、正式な資格を持つ彼女が対応した方が、後々問題になりにくいからだ。
おかげで俺の時間には、さらに余裕ができ始めていた。
この空いた時間を使って、俺は結さんとのデートを楽しむようになっていた。
横浜の港を散歩したり、外国人居留地のおしゃれなカフェでコーヒーを飲んだり。
時には、新橋まで汽車に乗って、東京の街並みを二人で歩くこともあった。
それは、令和の時代では縁のなかった、穏やかで甘い時間だった。
探偵稼業のようなスリルはないが、美しい婚約者と過ごす日常は、悪くない。
ある日のデートの帰り道、馬車に揺られながら結さんがふと口を開いた。
「一様。やはり、本格的な病院を建てましょう。今のままでは、メアリー先生も小泉先生も、お力を十分に発揮できておりませんわ」
「そうだな……。俺もそう思っていたところだ」
俺は頷いた。
国の政策も、俺が知る近代国家へと急速に近づきつつある。
医師の国家資格制度も整備され始め、江戸時代から続く無資格の町医者たちは、次第に肩身が狭くなっているという話も聞いていた。
そろそろ俺のような「薬の調合を隠れ蓑にした潜りの医者」は、限界を迎えそうだったのだ。
だが、病院を設立するとなると、お上の関与は避けられない。
「そのあたりは、鍋島侯爵夫人からお話を伺っております」
結さんは、バッグから一通の封書を取り出した。
「夫人のお力添えで、政府の要路に掛け合っていただきました。一様のこれまでの治療実績と、メアリー先生、小泉先生という正規の医師資格を持つお二人の存在があれば、正式な病院設立の許可は下りる手はずとなっております」
俺は目を見張った。
「結さん……君、いつの間にそんな根回しを?」
「ふふ。私だって、ただお茶を飲んでいるだけではありませんわ。一様の奥方となるのですから、これくらいのお手伝いはさせてくださいな」
頼もしすぎる婚約者である。
俺は早速、一番の理解者である鈴谷さんに相談を持ちかけた。
すると、話は俺の想像を絶するスピードで転がり始めた。
「先生が遂に病院をお建てになる! これは横浜の悲願ですぞ!」
鈴谷さんの号令のもと、地元財界がこぞって応援に立ち上がったのだ。
第二国立銀行の柳澤頭取はもちろんのこと、横浜の重鎮たちが「資金ならいくらでも出す」「土地の斡旋は任せろ」と、前のめりになりすぎて鼻血を出しそうな勢いで協力してくれるという。
さらに、結さんの根回し通り、鍋島侯爵家の強力な後ろ盾もあって、明治政府からの正式な許可書と、地元横浜市からの認可もあっさりと手に入ってしまった。
メアリーさんのアメリカ医師資格と、小泉さんの日本政府認定の資格。
二人の名義を前面に押し出し、俺のこれまでの「梅毒撲滅」という圧倒的な治療実績が、お役所仕事の壁を粉砕したのだろう。
かくして、俺は「金田一探偵事務所」ならぬ「金田病院(仮)」の設立に向けて、本格的な会議を開くことになったのである。
ちなみに、二人の女医たちは、相変わらず暇を持て余していた。
「先生、私、今日はユキちゃんたちに分数とアルファベットを教えておきました!」
「一様、孤児たちの健康診断、全員異常なしですわ!」
俺が会議の準備をしている間も、彼女たちはニコニコと子供たちの教育係と保健室の先生を兼任してくれていた。
優秀な人材の無駄遣いも甚だしい。
彼女たちのためにも、早く立派な活躍の場を用意してやらなければならないと、俺は兜の緒を締める思いだった。




