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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第39話 落ち着いてきた、身の回り


 明治二十年の夏。八月。


 俺がこのわけのわからない時代……元号の漢字が『明冶』になっているパラレルワールド的な日本に放り出されてから、数ヶ月が経っていた。

 日本の夏といえば、令和の時代なら連日の猛暑日にクーラーの効いた部屋から一歩も出たくなくなるのが常識だった。


 だが、ここ横浜の夏は案外悪くない。

 山手の丘の上に建つ俺の屋敷には、海からの心地よい潮風が吹き抜けていく。

 アスファルトもコンクリートの照り返しもないせいか、窓を全開にしておけば、日陰にいる限り十分に涼が取れた。


 麦わら帽子を被って縁側にでも座り、スイカにかぶりつきたくなるような、そんなノスタルジックな夏だ。

 ただ、俺の現状はノスタルジーに浸っている場合ではないくらい、目まぐるしく変化していた。


 当初、とにかくこの見知らぬ地で生き残ることだけを目標に始めたペニシリン製造と梅毒治療だったが、これが予想以上に見事にハマってしまったのだ。

 今や俺は、この横浜でちょっとした有名人になりつつあった。


 ……いや、待ってほしい。

 俺の職業は『私立探偵』だ。トレンチコートの襟を立て、バーボンを傾けながらけだるそうに紫煙をくゆらせる、フィリップ・マーロウのようなハードボイルドな生き方に憧れていたはずなのだ。


 それがどうだ。

 今、俺の屋敷の離れに設けた石窯からは、焼きたてのパンの甘く香ばしい匂いが漂ってきている。

 孤児のユキたちに任せている製パン事業は、俺の想像を遥かに超えて順調に売上を伸ばしていた。


 俺が提案した『あんパン』や『桃のジャムパン』、そして最近投入した『カレーパン』は、今やちょっとした横浜名物として定着しつつある。

 横浜港を代表するあの高級ホテルのラウンジで、外国人客や日本の富裕層がお土産としてこぞって買っていくのだ。


「先生! 今日の分のカレーパン、ホテルに納品してきました! 支配人さんが、明日からあと十個増やしてくれって!」


 小麦粉で鼻の頭を白くしたユキが、元気いっぱいに報告に走ってくる。

 その手には、売上金がずっしりと入った布袋が握られていた。


「おお、ご苦労さん。ちゃんとみんなで手を洗ってから、冷たいお茶でも飲んで休めよ」


「はいっ!」


 笑顔で駆け出していくユキの後ろ姿を見送りながら、俺は売上金の重みを掌で確かめる。


 ……チャリン。


 うん、いい音だ。

 いや、だからハードボイルドはどこへ行ったんだよ! 完全にパン工場の優しい工場長じゃねえか! と、セルフツッコミを入れる日々である。


 しかも、俺の人生の激変はパンだけではない。

 梅雨前には、第二国立銀行の柳澤頭取をはじめとする地元財界人の紹介で、雲の上の存在である鍋島侯爵家との繋がりができてしまった。


 そして、侯爵夫人からの直々のご指名で、元付き人であった多久男爵未亡人、池田結ゆいさんの梅毒治療を担当した。


 俺のペニシリンで見事に病魔から解放された結さんは、なんとそのまま俺の屋敷に住み着くことになり、あろうことか俺の「婚約者」に収まってしまったのだ。


 いくら亡き夫から理不尽に病気をうつされたとはいえ、元男爵夫人にして貴族の令嬢である。

 そんなやんごとなき女性が、どこの馬の骨とも知れない自称・南米帰りの俺の妻になるなんて。


はじめ様、お茶が入りましたよ」


 振り返ると、涼しげな上等な浴衣に身を包んだ結さんが、お盆を持って微笑んでいた。

 その笑顔は、初めて会った時の暗く沈んだ表情が嘘のように、明るく凛としている。


「あ、ありがとう、結さん」


 俺が茶を受け取ると、そこに明日香さんとイルサさんもやってきて、縁側は一気に華やかになった。

 元・高級娼婦の絶世の美女二人に、元・男爵夫人。

 さらにアメリカ人女医のメアリーさんに、最近合流した済生学舎出のエリート女医、小泉ハナさんまでいる。

 美女だらけの屋敷での同棲生活。


 ……おい、これって俺が大学時代に第二文芸部の先輩から聞かされた『異世界転生チートハーレムもの』ってやつそのまんまじゃないか。


 俺の目指すレイモンド・チャンドラーの世界観から、光年単位で遠ざかっている気がしてならない。


 だが、そんな華やかな同居人たちを抱えているにもかかわらず、屋敷の「本業」たる医療部門は、致命的な問題を抱えていた。


 それは——『圧倒的な暇』である。


 メアリーさんと小泉ハナさんという、この時代では考えられないほどハイレベルな正規の医師資格を持つ女性を二人も雇っているのに、はっきり言ってやることがないのだ。


 鈴屋の楼主から始まった小妓楼の梅毒パンデミックは、俺のペニシリン治療と定期健診の徹底により、すっかり沈静化していた。


 確かに患者は時々やって来る。

 だが、俺があまり歓迎したくないような客層ばかりなのだ。


「ミスター・カネダ! 俺のイチモツがまた痒くてたまらねえんだ! あの魔法の注射を打ってくれ!」


 ドカドカと土足で上がり込んでくるのは、大抵が欧米からの荒くれ船乗りや、柄の悪い外国人商人たちだ。

 港町・横浜の夜の街でハメを外しすぎた結果、しっかりと病気をもらってくる連中である。


 時々、長旅のせいで野菜不足になり、歯茎から血を出している壊血病の患者なんかも来るが、それなんか梅毒患者に比べればごく僅かだ。


 問題なのは、この外国人梅毒患者たちの態度のデカさだ。

 「黄色い猿の癖に生意気だ」とでも言いたげな態度で、うちのユキたち孤児を怒鳴りつけたりする輩もいる。


 俺は心底腹が立ち、一見さんお断り、というか「お前らみたいなクソ野郎は帰れ」という意思表示を込めて、外国人患者の治療費を容赦なく釣り上げていった。


 最初は鈴屋さんの時の倍の額に設定していた。

 それでも平気で払うものだから、次は五倍。それでも「安いもんだ」とヘラヘラしている。


 おいおい、明治二十年の一円を舐めるなよ。

 頭に来た俺は、態度が悪い奴には十倍、さらに二十倍という、ヤクザも青ざめるような法外なボッタクリ価格を提示した。


 現在の貨幣価値に換算すれば、一回の梅毒治療で数百万円をふんだくっている計算になる。

 だが、恐ろしいことに、不治の病の恐怖と俺のペニシリンの即効性の噂は、彼らにとって背に腹は代えられないものだったらしい。


 「クソッ、足元を見やがって!」と悪態をつきながらも、彼らは泣く泣く大金を払って治療を受けていくのだ。

 おかげで俺の銀行口座の残高は、ちょっとした財閥の御曹司かという勢いで膨れ上がっている。


 だが、流石の俺もこれ以上の値上げは少し考え直していた。

 いくらなんでも、このままでは俺自身が「横浜の悪徳ボッタクリ魔王」として国際問題に発展しかねない。


 今は少しだけ金額を抑え、代わりにメアリーさんの厳しい英語の説教をセットにすることで妥協している。

 そんなわけで、面倒な患者は高額な治療費で数を絞り、日本人患者の診察は小泉ハナさんに任せているため、俺の時間はますます余るようになった。

 縁側でお茶を飲みながら、結さんが俺の顔を覗き込む。


「一様。最近、少し退屈そうにされていらっしゃいますね」


「ん? いや、そんなことはないさ。パンの売上計算もあるし……」


「ふふ、誤魔化さなくてもよろしいのですよ。小泉先生もメアリー先生も、あまりにお暇な時間が多く、ユキちゃんたちのお勉強を見る以外にやることがないと、少し申し訳なさそうにされておりましたし」


 結さんは、扇子で口元を隠しながら上品に微笑んだ。


「一様。ここは一つ、本格的に『病院』をお建てになってはいかがでしょうか? お二人という立派なお医者様がいらっしゃるのですから、もっと多くの方を救う場所があってもよろしいかと存じます」


 結さんからの真っ直ぐな提案。

 確かに、彼女の言う通りだ。

 今の俺はあくまで「もぐりの医者」であり、薬の調合を隠れ蓑にしている状態だ。


 明治政府の政策も徐々に現代に近くなりつつあり、医師免許制度などの法的整備が進んでいけば、いずれこのままでは身動きが取れなくなる。


 だが、今の俺にはメアリーさんと小泉さんという、正規の資格を持つ医師がいるのだ。

 それに、鍋島侯爵家や第二国立銀行という強力な後ろ盾もある。

 この有り余る資金とコネクションを使えば、横浜に近代的な病院を設立することなど造作もないだろう。


「……そうだな。いっちょ、やってみるか」


 俺は麦わら帽子を目深に被り直し、立ち上がった。

 ハードボイルドな探偵稼業は、当分お預けだ。

 この横浜というステージで、俺は「病院経営者」という新たな謎解き……いや、事業に挑むことに決めた。


 待っていろよ、明治の横浜。


 便所の百ワットならぬ、文明開化の百ワットになって、この街を明るく照らしてやろうじゃないか。



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