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猫と横浜  作者: のらしろ
第一部 猫に引っかかれて明冶にまいる …

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第38話 婚約、そして独り立ちへ


 屋敷に帰り着くと、数日後、侯爵夫人は多久男爵夫人と、そして一人の若い女性を伴ってやってきた。

 その女性が、例の済生学舎出の女医だろう。

 背筋がぴんと伸び、知的な光を宿した瞳は、まさに「医者」といった風貌だ。


「先生、こちらが、お話しました小泉先生でございます」


 侯爵夫人の紹介に、小泉という女医は恭しく頭を下げた。俺も軽く会釈を返す。

 診察室へと案内すると、いよいよ本題だ。しかし、問題が発生した。


 さすがに男性である俺に裸を見せるのは気が引けるのか、多久夫人は顔を赤らめ、なかなか着物を脱ごうとしない。

 はにかんだ様子で、ちらちらと俺の顔を伺う。貴族の女性としての矜持か、それとも純粋な羞恥心か。


「先生、どうぞ、小泉先生に任せてくださいな。私もおりますゆえ」


 侯爵夫人がそう言って優しく促し、小泉先生も穏やかな声で説得する。メアリーさんも、患者の心情を理解するように頷いていた。


 「やれやれ、これは手強いな」


 俺は内心で呟き、診察は小泉先生とメアリーさんに任せることにした。

 彼女たちの繊細な気遣いの方が、今の彼女には必要なのだろう。

 俺は奥で待機する。

 聞こえてくる会話から、女性同士だからこそ可能な、ゆっくりとした信頼関係が築かれていくのがわかる。


 しばらくして、診察が始まった。

 俺の恰好は例の外科医ガノンセットのそのまま。

 小泉先生は聴診器で胸の心音を聞き、この間顕微鏡と一緒に買った水銀式の体温計で熱を測る。

 そして、俺が採血を行った。

 何せ、注射器一つとっても、この時代の常識を持つ人たちにはあまり見せたくは無いものだ。

 なので、例の外科医ギャノンなりきりセットにあった方の注射身を使ったが、あれ、針が太いので正直かわいそうだ。


 採血した注射器ごともって俺は一人二階に上がり、顕微鏡で調べることにする。

 俺の持つ顕微鏡は、令和の最新鋭だ。

 拡大倍率もこの時代の顕微鏡など端で笑うくらいのレベルだ。

 さすがにウイルスまでは見つけられそうにないが、それに迫るくらいまでは拡大できるし、多少ぼやけていても、そこはAIがサポートしてくれる。

 ぼやけた画像を補正し、自信の持つライブラリーに照会までかけてくれる優れものだ。


 画面を覗き込むと、そこには間違いなく、らせん状の梅毒トレポネーマが蠢いていた。

 その上、しっかりとその梅毒トレポネーマにマークが付けられて、梅毒トレポネーマを見つけたよって書いてある。

 実際はそう書いては無いが、内容的には同じだ。


 やはり、と俺は内心で呟いた。これで確証が持てた。

 俺は一階に戻り、二人の女医に結果を伝えた。


「やはり、梅毒ですね。トレポネーマを確認しました。すぐにペニシリンを投与します」


 俺がそう告げると、多久夫人の顔が青ざめる。発熱や痛みなど、一時的に症状が悪化すること、そしてその後に治癒に向かうことを丁寧に説明する。これも定番となった念書を取り交わしての投与だ。


 小泉先生もメアリーさんも、俺の治療を珍しそうに見つめている。

 小泉先生は、西洋医学を学んできたとはいえ、この目覚ましい治癒力には驚きを隠せないといった様子だ。


 一方、メアリーさんはすでに自分が体験しているので、珍しいというよりも、一人の医師として、科学者として、その仕組みを解き明かそうとするような探究心で俺の治療を見つめていた。

 その視線は、まるで探偵が新たな謎に挑む時のような、そんな鋭さがあった。


 少なくともこれから何度か注射を打たないといけないので、採血とは違い、あの動物救急セットに入っていた細い針が使える注射器を使って、ペニシリンを投与していく。

 あれは本来使い捨てなのだが、そうも言ってはいられないので、煮沸消毒を行い何度も使っている奴だ。

 針についても同じで、後で肝炎にでも感染しても、俺には責任が持てないから、そのあたりについてもそのうち念書にも書いておこう。


 注射による投薬も慣れたもので、三日目には採血しても結果は陰性となり、多久夫人の症状もすっかり治まったことを伝える。

 彼女は呆然とした顔で、それでも信じられないといった様子で自分の体を確認していた。

 

 夫人の治療を終えて、夫人を退院させてからも俺の生活はあまり変わり映えしない。

 ただ、小泉先生がうちに通ってくるだけなのだが、二人も医者は要るのかってくらい、はっきり言って暇だ。

 そりゃそうだ。

 今までだって、俺一人でもなんら問題は無かったことろに正規の資格を持つ医師を二人も……雇うと言ってもそういえば雇用契約すら結んでいないし、何より給与面での話もしてなかった。


 一応、小泉先生も、部屋は空いているので、そのうちこちらに引っ越すことになったが、どうにかしないとさすがに二人に申し訳ない。


 俺は真剣に数日考えた末に病院経営に乗り出す覚悟を決めた。

 せっかく女医が二人もそろったこともあり、俺は本格的に横浜で、主に訪れる外国人相手の病院を作ることにした。

 この横浜は開港地だ。外国人も多く、治療を求める声も少なくないはずだ。


 いざ、病院を作ろうと考えたら、この時代では令和と比べるもなくかなり緩いとは思うが、それでも許認可などがあれば面倒なので、事前に侯爵夫人に会って、今回の件について説明すると、夫人は全面的に協力するとまで言ってくれた。


 これには驚いたが、彼女にとっては多久夫人の件が解決したことへの恩義もあるのだろう。

 だが、ただで協力してくれるというような、ことはない。

 公爵夫人から条件を提示された。


 「その代わりではないのですが……」


 侯爵夫人は、少し躊躇うような素振りを見せた後、静かに切り出した。


「多久夫人は、このままでは男爵家からも正式に抜けることが決まりました。つきましては……先生が、その夫人を娶られてはいかがでしょうか」


 俺は、耳を疑った。まさか、そんな話になるとは。


 「これはまた、とんでもない事件に巻き込まれたもんだな」


 断り切れずに、未亡人の多久夫人とお付き合いすることになる。

 多久夫人とお付き合いしながら、俺は横浜に病院となる新たな場所を探し始めた。


 この計画には、主に第二国立銀行を通じて知り合った横浜財界人の協力も得られた。

 さらに、資金面では第一国立銀行の横浜支店までもが名乗りを上げてくれた。

 どうやら、俺の梅毒治療の噂は、想像以上に広まっているらしい。


 結局、山手の屋敷のすぐそばに、俺の屋敷の二倍の広さを持つ広大な屋敷を確保し、内装工事にかかることになった。

 すべて個室で用意させ、そのうち二部屋には個室トイレも設置して、入院患者のプライバシーと快適性を確保した。

 別棟には、ペニシリンの製造に必要な機材類も用意し、少なくともこの病院で入院する患者には、安心してペニシリンを供給できる体制を整えた。


 数ヶ月後、病院開設の式典をささやかに執り行った。

 煌びやかなパーティーとは違い、本当に信頼できる人間だけを招いた、アットホームなものだった。


 そして、その席で、多久夫人改め旧姓の池田結ゆいさんとの婚約も併せて公表したのだ。

 柳澤頭取も、侯爵夫人も、にこやかに祝福してくれた。結さんの顔は、少し緊張していたが、どこか清々しい表情をしていた。


 俺の屋敷に詰める女性たち――明日香さん、イルサさん、メアリーさん――については、結さんも変に納得したのか、そのままというか、結さんの方が後から来たので、後輩として遠慮している節もある。

 だが、こういう公式な場では、さすがに元男爵夫人だけあって、堂々と毅然とした態度を見せてくれた。


 彼女の存在が、俺のこの異世界での生活に、新たな安定をもたらしてくれるだろう。

 ここに俺は初めて、病院経営という生きていく基盤を横浜に持つことができたのだ。

 

 俺は一つの事業を立ち上げ、さらに婚約までしたし、また、孤児たちの仕事も俺は作り、この横浜でこの先も生きていけそうな気がするまでにはなったと思う。


 思えば、初めて横濱駅に降ろされた時には、生きていけるのかすら心配したが、ここまでくればこの先もどうにかなりそうだ。


 あ、そう言えば猫はどうしたかな……


 俺をこの時代に連れてきた猫のことを思い出すと、見つけたよ。

 スケベそうな顔しながら結さんの元でじゃれていた。

 うちの女性たちだけが猫に気が付いてじゃれているが、他の招待したお客様は誰一人として気が付かないのも変な話だが、あの猫ならばさもあらんとも思えるから不思議だ。


 しかし、あの猫は絶対のオスだな。

 そんなことはどうでもいいが、どうも今回の事業も婚約もともにあの猫のお眼鏡にかなっているようだ。


 いったいあの猫は俺をどこに連れていくつもりなのだろう

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