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猫と横浜  作者: のらしろ
第一部 猫に引っかかれて明冶にまいる …

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第37話 鍋島公爵夫人


 メアリーさんが屋敷に加わってから、子供たちの教育体制も盤石になった。

 特に、英語の授業は彼女が受け持つことになり、子供たちは目を輝かせながらメアリーさんの話に聞き入っている。

 彼女もまた、子供たちから日本語を学んでいった。

 互いに言葉を教え合う姿は、見ていて微笑ましいものがある。


 屋敷で、様々な患者を診てきたことが割と目立つのか、ある日、第二国立銀行の柳澤頭取から誘いがあった。

 それは、まるで断ることなど許されないかのような、重々しい口調だった。


「先生。この度、横浜にゆかりのある鍋島侯爵が、この間パーティーを開いたホテルにて催しをされます。つきましては、ぜひ先生にもご出席いただきたく。侯爵様も、先生のお噂はかねがね、と」


 柳澤頭取は、ニヤリと笑いながらそう告げた。

 その目には、有無を言わせぬ圧力が込められている。

 やれやれ、またパーティーか。


 だが、侯爵主催となると、さすがに断るわけにはいかないだろう。

 これは、もはやこの街の顔役としての「義務」に近いのかもしれない。

 俺の探偵稼業も、いつの間にかこんな大それた舞台に引っ張り出されるようになったか。


 パーティーは、やはり前回と同様に煌びやかなものだった。

 しかし、今回は明らかに格が違う。

 会場の空気は、これまで俺が足を踏み入れたどの場所よりも重く、そして洗練されていた。

 上質なシルクのドレスや、仕立ての良い燕尾服を身にまとった男女が、グラスを片手に談笑している。

 その言葉の一つ一つが、金の匂いをさせているようだった。


 まるで、巨大な蜘蛛の巣の中心に、俺だけが迷い込んだような気分だ。

 やれやれ、どうにも落ち着かないな。

 柳澤頭取を介して、俺は鍋島侯爵と長らく話をする機会を得た。

 侯爵は、柔和な笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には鋭い光が宿っている。


「先生のお噂はかねがね。梅毒の治療に、あの脚気までも。いやはや、驚きましたな」


 侯爵は、ウィスキーグラスをゆっくりと回しながら、探るような視線を俺に向けてくる。

 俺の治療法が、この財界のトップにまで届いているとはな。

 俺は、この時代の医療レベルの低さや、ペニシリンの画期的な効果について、熱く語ってしまった。


 侯爵は、一つ一つ頷きながら、時折鋭い質問を挟んでくる。

 まるで、俺の言葉の裏にある真実を探ろうとしているかのようだ。

 他の財界人たちも、チラチラとこちらを窺うように視線を送ってくる。

 彼らの視線が、まるで獲物を品定めする猛禽類のようで、背筋に冷たいものが走った。


 俺が梅毒の特効薬について語ると、侯爵の表情がわずかに強張ったように見えた。だが、すぐに元の柔和な笑みに戻る。


「いや、実に興味深い。先生のその探究心には感服いたしました」


 そう言って、侯爵は深く頭を下げた。社交辞令なのか、それとも何か別の意図があるのか。探偵の勘が、何かがうごめいていることを告げている。


 パーティーから数日後、侯爵夫人からお茶会に誘われた。

 今度は、横浜ではなく渋谷の松濤にある鍋島家の茶室で、とのことだった。


 やれやれ、随分と遠くまで行くことになるな。

 横浜の埃っぽい埠頭や、薄暗い路地裏とは、まるで別世界じゃないか。

 この時代の交通機関で、東京まで出向くとなると、それだけで一仕事だ。


 「まったく、上流階級の連中ってのは、やることが大掛かりだな」


 俺は内心で毒づきながらも、これを断れば、柳澤頭取の顔にも泥を塗ることになるだろうと、渋々承諾した。

 背中にまとわりつく、見えない糸に引かれているような気分だ。


 朝一番の汽車に乗り込んだ。まだ空には、夜の残滓が lingering している時間だ。

 汽車の窓からは、横浜の街並みがゆっくりと遠ざかっていく。

 朝靄の中に霞む煉瓦造りの建物や、埠頭に停泊する船のシルエットが、まるで絵葉書のように見えた。


 品川駅に着くと、そこはもう喧騒の坩堝だった。

 馬車の蹄の音、人々のざわめき、物売りの声。

 すべてが混沌としていて、横浜とはまた違う活気に満ちている。

 俺は駅前で人力車を拾った。


「松濤の鍋島様邸まで」


 そう告げると、車夫は「へい!」と威勢の良い声で応えた。

 人力車は、品川の賑やかな通りを抜け、いくつかの坂道を上っていく。

 道行く人々は、着物姿の者もいれば、洋装の者もいる。


 明治という時代の過渡期を肌で感じる。

 人力車から見ると、辺りは田舎その者だ。

 まあ、まだ渋谷までは鉄道すら通じてはおらず、渋谷周辺にも、大名屋敷があるくらいで、やたらと空が広い。


 とても俺の知る洗練された大都市渋谷の顔とは全く異なり、なんと表現すればいいのか……はっきり言って田舎だな。

 まあ、旧紀州徳川家の下屋敷を鍋島藩が買い取ったとか聞いてはいるが、田舎に立派な屋敷がある感じだ。

 やがて、人力車は茶畑の中へと入っていった。


 道の両側には、鬱蒼と茂る木々が立ち並び、煉瓦塀の向こうには広大な屋敷が点在している。

 車の往来もまばらになり、聞こえてくるのは鳥の声と、車夫の息遣いだけだ。


 「まるで、別の国に来たみたいだな」


 俺は思わず呟いた。喧騒にまみれた市街地とは一線を画す、まさに「隠れ家」といった趣だ。品川から松濤まで、人力車で一時間近くかかっただろうか。茶室に着いたのは、ちょうど昼過ぎだった。


 茶室は、質素ながらも洗練された美しさを備えていた。

 磨き上げられた床の間には、一輪の花が生けられ、壁には掛け軸が飾られている。 

 空気は澄み渡り、時間がゆっくりと流れているように感じられた。


 客は俺一人。

 主人は侯爵夫人で、もう一人、お茶を立てている女性がいた。

 侯爵夫人が紹介してくれたのは、多久男爵の御内室だという。

 その女性もまた、侯爵夫人とは異なる、しとやかで奥ゆかしい美しさを湛えていた。


 男爵の夫人が立てたお茶を、主人である侯爵夫人が俺にもてなす。

 作法にのっとり、恭しく差し出された茶碗を受け取る。

 身分というか立場的に、根無し草の俺に対して、偉く贅沢な話だ。


 だが、夫人二人に男が一人。

 なんだか、妙な違和感を覚える。

 茶室の静謐な空気の中で、その違和感だけが、ざわめくように俺の心に広がる。

 まるで、これから何か秘密の相談でも始まるような、そんな密やかな空気が漂っていた。


 その感じた違和感は、間違いではなかった。

 お茶を飲み終え、談笑が途切れた時、なんと、侯爵夫人が俺に切り出してきたのだ。


「先生に、ご相談がございまして……」


 その言葉と共に、侯爵夫人は多久男爵夫人をチラリと見た。

 多久男爵夫人は、俯いたまま微かに震えている。

 梅毒の治療について、と。

 それも、今お茶を立てていた多久男爵夫人が患者だという。


 やれやれ、この横浜の街は、本当に俺を放ってはおいてくれないらしい。

 東京にまで来て、まさかこんな形で事件に巻き込まれるとはな。


 ここで人間関係をおさらいすると、お茶を立ててくれた多久男爵夫人は、もともと鍋島家に長く仕えた家臣の一人で、目の前の多久夫人も侯爵夫人にも仕えていたが、縁あって多久男爵に嫁いだのは一昨年らしい。

 多久男爵は海軍士官で、長く南京の公使館に駐在武官として詰めていたとか。

 どうもその当時に病気をもらったらしく、向こうではかなり遊んでいたのか知らんが、気の毒なのは、結婚した時に日本に戻ってきたようなのだが、ほとんど夫人とは関係を持つ暇なく、再度南京に出向いた時に暴漢に襲われて絶命したと教えられた。


 夫人は病気までもらいながらも未亡人となり、近々男爵家からも追い出されそうだと侯爵夫人を頼ったらしい。

 結婚した直後に関係を持ったくらいしか接触が無かったようなのだが、それでしっかりと病気を貰うなんて、ずいぶんついていない人のようだ。


 昔仕えていた鍋島公爵夫人を頼った時に、病気についても相談されて、俺をここに招いたということだ。


 侯爵夫人は、貴族の醜聞になるらしく、秘密厳守だと何度も口止めしてきた。

 その言葉には、ただならぬ重みが込められていた。


 「どうか、このことを他言なされぬよう……」


 俺は医者ではないが、それくらいの守秘義務くらいは心得ている。

 探偵にも同様なものがあるからな。俺は無言で頷いた。


 だが、今まで治療してきた娼妓や、外国人とは違い、それこそやんごとなき方の治療だと、色々と問題がありそうだ。

 少なくとも、俺はこの国どころかどの国でも医師の資格を持ち合わせていない、もぐりの医者になる。


 後々問題にされるのは困るので、俺は無資格であることを正直に話した。

 すると、今度は侯爵夫人が、一人の女性を紹介するという話になった。

 治療は彼女にさせることで問題ない、と。


 その女性は済生学舎出身の女医で、これも鍋島藩お抱えの医師を代々輩出している家系で、西洋医学も早くから学んでいる家らしい。

 女医など珍しいこの時代で、医師の資格を持っているという。


 しかし、資格があっても産婆くらいしか仕事がないのが、この時代の女性医師の実情らしい。

 侯爵夫人は、俺の下で働かせることはできるかと聞いてきたので、俺は喜んで受け入れることにした。


 また一人、有能な人材が手に入った。これは、俺の横浜での事業にとっても、大きなプラスになるだろう。

 まるで、巨大なパズルの一片が、また一つ嵌まったような気分だった。

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