第36話 一人の女医
息を呑むほどに美しい、一人の外国人女性が、俺の目の前に立っていた。
ブロンドの髪は乱れ、青い瞳は人生に絶望しているかのように暗く澱んでいる。
その表情は、まるで生きる屍のようだった。
いったい、何があったというんだ?
俺はすぐにイルサさんを呼び、通訳を頼んだ。
彼女は英語が堪能だからな。
イルサさんが彼女に問いかけると、か細い声で答える。その声も、かすれて震えているようだ。
イルサさんの通訳を通して、彼女の素性が判明した。
彼女の名はメアリー。アメリカ人の元船医だという。
そして、梅毒に罹患しているらしい。
俺は事情を詳しく聞くことにした。
話を聞けば聞くほど、彼女の境遇はあまりに悲惨なものだった。
乗っていた商船の二等航海士にレイプされ、その際に梅毒を移されたというのだ。
運の悪いことに、梅毒の症状が早く出たためにすぐに船長の知るところとなり、横浜で船から降ろされたらしい。
船長権限で、遠く異国の地で解雇されたわけだ。
しかも、病気は治療法のない梅毒。
絶望しかなく、止まっていたホテルで悩んでいたところ、財界のパーティーの席で梅毒の治療について盛んに話がされていたことをホテルマンから聞かされて、ダメもとで俺のところにやって来た、というわけだ。
メアリーさんは白人の父親と黒人の母親のハーフで、非常に美しい二十六歳だ。
スタイルもよく、だからこそレイプされたのだろうが、まだこの時代では人種差別がひどく、襲われた彼女の方が不利益を被り船から降ろされたわけだが、たぶん襲った航海士は長くはないだろう。
梅毒に侵されていたから彼女に移ったのだ。
彼女は帰りたくとも帰れない状況で、もともと祖国でもひどい扱いを受けていたので、苦労して医師にはなったが、人気のない普通の商船の船医となったという経緯があり、船医もなりたくてなった職業ではなく、消去法でなったということだった。
「……先生、どうか、私を助けてください。何でもします」
メアリーさんは、憔悴しきった表情で俺に訴えかけた。
その瞳には、一筋の光が宿っていた。
俺からの誘いは、彼女にとってはまさに渡りに船だったのだろう。
二つ返事で了承してくれた。
イルサさんが隣にいてくれたことも、彼女にとっては心強かったに違いない。
イルサさんと同様に「何でもするから助けてほしい」という彼女の言葉を受け、俺はそのまま彼女を雇うことにした。そして、すぐに治療を開始する。
医者を雇うことになったので、そろそろ診察で使っている俺の顕微鏡だけではまずいだろうと考えた。
何せ、この時代にあってはならない物、オーパーツとかと言われるものだ。
できれば、俺が買横浜で買える光学式顕微鏡で、梅毒トレポネーマを見つけられるようならば良いのだが……
俺は早速、以前にも取引のあったドイツ人商店主のいる店まで足を運び、一番性能の良い顕微鏡をその場で買った。なんと百二十五円もしたのだ。
とんでもない出費だが、これは必要経費だ。
それから何度も実験しながら、この光学式顕微鏡について調べた。
ドイツの光学メーカー、カールツァイス製のものだった。
これを使って梅毒トレポネーマを見つけられるよう練習を重ねるが、結局、俺にはできずに終わった。
その後、PCで梅毒についてよくよく調べると、梅毒トレポネーマは非常に細くて普通の顕微鏡では見つけられないとのことだった。
もう少し時代が進んで、暗視顕微鏡とかいうものが作り出されるようでないと無理そうだ。
家庭の医学を調べてもこんなことは書いてなかった。
梅毒は梅毒トレポネーマという菌が体の中に入り感染するとしか書かれていなかったが、そもそもペニシリンが発明されるのは、後十年は後になるはずなので、しかも梅毒菌の発見は百科事典では明治38年とあるし、とてもじゃないが本来は今見つけてよいものでは無いな。
流石平成の百科事典だ。
百科事典の方に梅毒についてそのあたりについて詳しく書いてあったが、治療のことばかりに目が言ってそこまで頭が回らなかったのが今回の敗因だろう。
とんだ無駄使いになったが、これで見つけられるような菌でもあれば、それを使って治療でも考えるか。
まあ、素人だしな。当面の診察は、メアリーさんに任せるしかないだろう。
彼女の治療も、娼妓たちと同じだった。ペニシリンを投与し、三日もすると症状は治まった。
俺の持つ顕微鏡は、平成どころか令和のそれも最新のもので、拡大倍率もこの時代の顕微鏡など端で笑うくらいのレベルだ。
流石にウイルスまでは見つけられそうにないが、それに迫るくらいまでは拡大できるし、多少ぼやけていても、そこはほれ、AIがサポートしてくれるので、ぼやけた画像を補正して、自身の持つライブラリーに照会までかけてくれる優れものだ。
俺の自慢の顕微鏡での観察でも、メアリーさんからの採血からは梅毒トレポネーマは見つからなかった。
彼女に治ったと伝えても、なまじ医学知識がこの時代では最新と言われるくらいまで持っている彼女にはなかなか信じてもらえなかった。
何せ、まだ梅毒の原因すら発見されていない。
不治の病として恐れられているので、彼女も怯えて藁にも縋る気持ちでここに来たことだろうから、俺から大丈夫とだけ言われてもなかなか信じてもらえなかった。
そこで、俺は梅毒について知る限りの情報を伝えると、非常に驚いていた。
そして、約束通り、俺に雇われるという。
これで、俺の屋敷にもちゃんとした医者ができたわけだ。
メアリーさんには、ペニシリンの製造補助と、患者の診察を受け持ってもらうことにした。
彼女は米国だが医師免許も持っているし、何より専門家だ。
俺が片手間でやっていた診察より、はるかに的確な判断ができるだろう。
そんなある日、ドイツ人商店主が俺の下を訪ねてきた。彼の顔は、心なしか青ざめている。
「先生、困ったことになりました。私の同郷の者が、怪我をしてしまって……どうも、様子がおかしいのです」
彼の話を聞くと、どうやら破傷風らしい。
俺はすぐにメアリーさんに診察を頼んだ。彼女は患者の状態を見るなり、顔色を変えた。
「これは……破傷風です」
その場ですぐに措置を取る。
患部をアルコールで消毒した後、ペニシリンを投与した。
これでしばらく様子を観察する。
幸い、比較的軽い症状だったこともあり、ほとんどペニシリン投与だけで済んだようなものだった。
さすがペニシリン、といったところか。
それから数日後には、今度はドイツ人商店主からの紹介ということで、今度はフランス人商店主が梅毒で屋敷にやって来た。
やれやれ、この街の連中は、どうにもお盛んだな。
フランス人やドイツ人からは、これまでの経験上、色々とぼられていたこともあり、費用を日本人に請求する金額の二倍に設定して請求しておく。
気持ちの問題だが、俺からしたら少しは溜飲が下げることができた。
先の破傷風患者も梅毒患者も、無事に治って屋敷を出て行った。
さすがに二人とも男性だったこともあり、当然セクハラはしなかった。
というか、完全に治療についてもアメリカ人医師のメアリー・ストーンさんに任せた。
これで、俺の肩の荷も少しは軽くなったというわけだ。




