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猫と横浜  作者: のらしろ
第一部 猫に引っかかれて明冶にまいる …

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第35話 脚気の治療



 パーティーの翌日、まだ朝も早い時間だというのに、屋敷の玄関で来客を告げるベルが鳴った。

 やれやれ、まったく休む暇も与えてくれないらしい。

 俺が向かうと、鈴谷さんが一人の老紳士を伴ってそこに立っていた。


「先生。昨晩お話しました、脚気の患者です。私の古くからのお客様で、友人でもあります。一様、何度もお願いばかりで恐縮ですが、彼を見てもらえませんか」


 鈴谷さんは、そう言って頭を下げる。

 彼女の顔には、どこか気まずさと、それでも縋るような懇願が浮かんでいた。

 俺は「やれやれ」と内心で呟きながら、老紳士に軽く会釈する。

 これも、探偵稼業の一環ってやつか。


 老紳士は、顔色は悪くないものの、どこか疲れたような表情をしていた。

 歩き方もぎこちない。

 俺は早速、脚気の診察を行うことにした。

 と言っても、やることはシンプルだ。彼に足を組ませ、膝の皿の下を軽く叩く。

 当然、反応はない。

 健常者であればピクンと膝が跳ね上がるはずだが、彼の足はぴくりとも動かない。 

 典型的な脚気の症状だ。


「まだ寝たきりではないようですね。治療は可能だと思いますが、しばらく入院していただきますか?」


 俺がそう問いかけると、老紳士は驚いたように目を見開いた。

 この時代の医者は、ほとんどが往診専門だ。入院という概念自体が、まだ珍しいのかもしれない。


「入院、ですか?」


「ええ。食事療法が中心になりますから、きちんとした管理が必要になります。費用は梅毒の治療と同じくらいで構いません」


 いちいち新しい設定や計算をするのも面倒だし、何より、この時代の医者がどれくらい治療費を取るのか、正確な相場なんて知る由もない。

 ざっくりと、あの梅毒の治療費と同じくらいにしておけば、文句も出ないだろうという判断だ。我ながら、大雑把なもんだ。

 老紳士は、しばらく考え込んだ後、覚悟を決めたように頷いた。


「わかりました。先生にお任せします」


 そして二日後、彼はご家族を伴って再び屋敷を訪ねてきた。そのまま、離れの病室に入院してもらうことになる。

 俺の屋敷は、いつの間にか簡易病院と化しているな。

 脚気の治療は、基本的に食事療法に頼る。

 この時代の脚気は、主にビタミンB1の欠乏によって起こる。白米ばかり食べて、ビタミンB1が不足しているわけだ。


 そこで、俺はPCを立ち上げ、簡単に手に入るビタミン豊富な野菜を検索した。

 そして、それらをすり鉢でとにかくすりつぶして青汁を作った。

 いかにも「薬」らしいものがほしいだろうという、俺なりの気遣いだ。


「さあ、これを飲んでください」


 目の前に差し出された緑色の液体に、老紳士は顔をしかめる。その気持ちはよくわかる。色からして、不味そうだ。


「これは……薬で?」


「ええ。良薬は口に苦し、と言いますからね。効果は保証します」


 俺がそう言うと、彼は観念したように青汁を飲み干した。

 その顔は、渋柿でも食べたかのように歪んでいたが、これも治療のためだ。

 我慢してもらうしかない。


 食事は、玄米を増やし、豚肉や豆類、卵といったビタミンB1が豊富な食材を中心に摂らせた。

 そして、毎日青汁を欠かさない。


 無事に十日の入院で、老紳士の脚気も治まり、退院させた。

 彼の足に膝を叩きつけると、しっかりと反応が返ってくる。

 顔色もすっかり良くなり、歩き方も以前よりずっと軽やかになった。


 その時の費用は、初診料五円。そして入院十日で、入院費と治療費を合わせて一日当たり二円計算で二十円。合計で二十五円を請求した。

 後日銀行で支払う、ということで、請求書だけ発行しておいた。

 柳澤頭取も、これなら文句は言わないだろう。


 脚気の患者が入院中に、雑談の中で医者についての話が出てきた。最近は西洋医学が盛んで、帝国大学だけでなく、私学でも西洋医学を学ばせる学校ができているらしい。

 とにかく今は過渡期で、資格制度が確立されたわけではなく、そこら中に江戸からの流れで医者をしている者までいるという。

 だが、この流れからすると、資格がないとそろそろ治療をするのもまずいことになりそうだ。


 俺は元々、医者ではなく製薬業を考えていると、パーティーの席でも話したはずだが、それでも治療を求めてくるのが絶えない。

 ほとんどが小妓楼の娼妓たちの梅毒患者だが、たまに今回のように脚気患者もいる。

 今後について、専門の医師を雇うことも考えるべきだろう。

 だが、得体の知らないものに雇われようとするものなどいるだろうか?

 ましてや、こんな怪しげな治療法を目の当たりにして、信じる医者がいるとは思えない。


 俺の頭の中は、今後の事業展開と、この医療の過渡期における立ち位置について、ぐるぐると考えが巡る。


 ――まあ、そのうち考えていくさ。


 そう結論を先延ばしにした、ある日のことだった。屋敷の玄関で、またベルが鳴る。どうせ、また誰かの病気の相談だろうと、いつものようにドアを開けた。

 しかし、そこに立っていたのは、予想だにしない人物だった。

 息を呑むほどに美しい、一人の外国人女性が、俺の目の前に立っていた。


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