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猫と横浜  作者: のらしろ
第一部 猫に引っかかれて明冶にまいる …

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第34話 財界の集まり



 子供たちが作るパンの評判は上々で、俺の計画は順調に滑り出している。

 だが、問題がないわけじゃない。

 毎日、ホテルに納めるパンの数についてだが、これの方が厄介になりそうだ。

 子供たちに任せているとはいえ、まだ彼らは成長期にある子供だ。


 あまり無理をさせるわけにはいかない。

 このペースで注文が増えていくと、いずれ供給が追いつかなくなるだろう。

 人手を増やすか、それとも製造工程を効率化するか……。

 考えることは山積している。やれやれ、まったく休む暇もないな。


 第二国立銀行を通して横浜を代表するホテルを相手に商売を始めたものだから、どうやら横浜財界からの注目度も高まっているらしい。

 なんだか、目立ちたくない俺としては複雑な心境だ。

 だが、これで子供たちが食いっぱぐれることがなくなるのなら、背に腹は代えられない。


 無事に約束の十日間が終わり、俺は請求書を持ってホテルへと向かった。

 支配人は俺の顔を見ると、ニヤリと笑った。


「先生、おかげさまで、パンは大変な好評でして。特に桃のジャムパンは、飛ぶように売れております」


「それはどうも」


 俺がそう応えると、支配人は続ける。


「つきましては、ささやかながら、先生を横浜経済人の集まりにご招待したいのですが。今夜、当ホテルで開催されますので、ぜひご出席を」


 なるほど、そういうことか。

 これが、この世界の「お礼参り」ってやつか。

 断る理由もない。

 むしろ、今後の展開を考える上では悪くない話だ。

 俺は招待を快諾した。


 その夜、俺は生まれて初めて、先のホテルで開催されている財界人との交流パーティーに参加した。

 煌びやかな会場に、上質な洋装に身を包んだ男女がひしめき合っている。

 まるで、どこかの映画の一場面に迷い込んだような気分だ。


 やれやれ、どうにも落ち着かないな。

 幸いというか、ホテルの支配人とは面識ができているし、第二国立銀行の柳澤頭取とも取引があったので、全く初対面の人ばかりでないのが救いだ。


 それでも、どこか浮いた存在のように感じるのは、俺がこの世界の住人になりきれていないからだろうか。

 パーティーが始まってしばらく経った頃、少し遅れて鈴谷さんたちが会場入りした。


 彼たちの姿を見た瞬間、俺はなぜかホッと安堵した。

 不思議なもんだな。

 俺はすぐに鈴谷さんたち楼主たちの集まりに挨拶に出向いた。

 彼たちは俺の顔を見ると、にこやかに迎えてくれた。


「先生、パンの商売、大変なご成功のようですな。噂はかねがね」


 鈴谷さんがそう言って、朗らかに笑う。

 まったく、情報が早い。この街の噂話は、風に乗ってあっという間に広がるらしい。

 そんな時、鈴谷さんが俺に声をかけてきた。


「先生、こちらへ。別の業種の方々です。貿易業などを手掛けていらっしゃるグループでして、ちょうど先生にご紹介したい方がいらっしゃいました」


 俺は鈴谷さんに促されるまま、挨拶に出向いた。

 数人の男たちが、葉巻を燻らせながら談笑している。

 いかにも、やり手の実業家といった風貌だ。


「……先生、とお伺いしましたが」


 グループの一人が、俺に視線を向けた。

 俺が簡単に自己紹介を済ませると、彼らは興味深そうに頷いた。

 その席で、世間話の流れから、病気のことが話題となった。

 すると、グループメンバーの一人が、顔をしかめて言った。


「どうも、近頃、脚気がひどくてな。この足の痺れがどうにも……」


 その言葉に、鈴谷さんがすかさず俺に視線を向け、問いかけてきた。


「先生。一様、脚気はあの薬で治せませんか?」


 脚気か。

 脚気といえば、以前に第二文芸部の先輩から聞かされた『転生チート』の定番だという話を思い出した。

 そういえば、俺が長野で買った漫画にも、同じようなことがあったっけな。

 ビタミンB1の欠乏症だから、白米ばかり食ってる当時の日本人には多発する病気だったはずだ。

 ビール酵母とか、豚肉とか、玄米とか。ビタミンB1を多く含む食品を摂ればいいんだろ?

 俺は記憶を辿りながら、慎重に言葉を選んだ。


「直せるかどうかはわかりませんが、俺の育った地方では治療方法はありましたよ」


 俺がそう答えた途端、急に貿易商のグループメンバーたちが食いついてきた。

 彼らの目が、ギラリと光る。


「鈴谷さん。どういうことですか?」


「あの薬ってなんのことですか?」


 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

 やれやれ、これはまずいことになったな。

 だが、時すでに遅し、といったところか。

 その時、第二国立銀行の柳澤頭取までもが話しに加わってきた。


「一様、もうおくすりの準備が整ったのですか」


 頭取の問いかけに、鈴谷さんがすぐに反応した。

 彼は頭取に対して、小妓楼の娼妓たちの梅毒治療について説明を始めた。

 隠すつもりもなかったが、余りに大々的にはまだ対処できない。


「未だ治験の段階で商売までは繋がりません。ですが、治療だけはできます」


 俺はそう付け加えた。

 貿易商たちは、その言葉に目を見開いている。

 どうやら、彼らの間でも梅毒は深刻な問題だったらしい。


 そこからこのパーティーでは、病気についての話題が中心となってしまった。

 まるで、病気の相談会だ。

 中には、結核の治療はできるのか、という質問が入った。

 それについては、俺はとぼけることにした。


「結核……なんですか、それは?」


 結核は、ストレプトマイシンという抗生物質が特効薬だと知ってはいるが、残念ながら作り方を知らない。

 この時代の治療法なんて、隔離と栄養療法くらいなもんだろう。


 精々、免疫力を高める工夫しかできないので、変な期待を持たせたくはない。

 無責任なことは言えない。それが、俺の探偵としての、いや、医者としての矜持だ。

 貿易商たちの失望したような顔が、妙に心に残った。

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