第33話 孤児たちの商売
やれやれ、この横浜という街は、どうにも俺を放ってはおいてくれないらしい。
まるで、次から次へと事件が舞い込んでくる、三流探偵事務所のようだ。
治療を続けながら、俺は回復した少女と少しずつ話をするようになった。
最初は警戒心でガチガチだった彼女も、明日香さんたちの献身的な看護もあってか、徐々に心を開いていく。
「名前は?」
俺がそう問いかけると、少女はか細い声で「……ユキです」と答えた。
ユキ、か。雪のように儚い、そんな印象を受ける名だ。
話を聞けば、やはり俺の想像した通りだった。
彼女は孤児で、この横浜の路地裏で同じような境遇の子供たちと寄り集まって生きているらしい。
ユキはその中でも年長の部類に入り、数人の面倒を見ているという。
まるで、小さな群れのリーダーだな。
「あの子たちも……みんな、具合が悪いんです。咳をしている子も、熱がある子も……」
ユキは、自分のことよりも仲間のことを心配している。
その瞳は、助けを求めるように真っ直ぐに俺を射抜いた。
「先生、お願いです。あの子たちを……助けてください」
その嘆願は、俺の胸に重く突き刺さる。
子供たちの背後でうごめく、下衆な男たちの影は、彼女の話からは見えてこない。
だが、そんなものがいるかいないかなんて、問題じゃない。
このままでは、彼女たちの未来がないことだけは確かだ。
俺は明日香さんとイルサさんに事情を話して相談した。
「……なるほど。それで、後ろにヤクザ者のような男がいる気配はない、と」
明日香さんは腕を組んで、ふむ、と頷く。
彼女の目は、探偵のように鋭い。
「ああ。話を聞く限りではな。純粋に、子供たちだけのコミュニティのようだ。もし、背後に組織的な何かがいるなら、話はもっと厄介になるんだが」
「ええ、その場合は私たちだけでは手に負えませんわ。ですが、そうでないのなら……」
明日香は俺の顔をじっと見つめる。
「先生のお考え通りになさるのがよろしいかと。私たちが、お手伝いできることは何でもいたします」
やれやれ、本当にできた人たちだ。
これには感謝しかない。
俺はユキを連れて、彼女が見つかったあの薄暗い路地裏へと向かうことにした。
まずは、現状をこの目で確かめなければ始まらない。
探偵の基本は、足で稼ぐことだ。
ユキに声をかけさせると、薄汚れた建物の陰から、おずおずと子供たちが姿を現した。
全部で八人。七歳から十五歳まで、男の子が三人で、残りの五人が女の子。
中には、俺が以前治療した小妓楼の娼妓、御琴にどこか面影が似ている七、八歳の子供もいる。
どの子も、栄養状態が悪く、薄汚れた服を着ている。
この時代のストリートチルドレンの現実を、まざまざと見せつけられた気分だ。
ユキの話では、男の子はある程度の年齢になると「一人立ち」と聞こえのいい言葉で追い出され、結局は街のゴロツキになるか、さらに悪い道に進むしかないらしい。
ここにいる男の子たちは、まだその年齢に達していないだけ、ということか。
そして、女の子たちの未来も、決して明るいものではない。
ユキのように、夜鷹となって体を売るのが関の山。
病気をもらって、令和で言うところの成人を迎える前に死んでいくのがほとんどだという。
そう考えると、明日香さんたちのように小妓楼に所属しているだけでも、生存率は格段に上がるというわけか。
……どんなハードボイルドだ。
俺が憧れたレイモンド・チャンドラーの世界は、もっとドライで、それでいてどこかに美学があったはずだ。
だが、目の前に広がるこの光景は、ただただハードで、救いのない現実だけが横たわっている。
こんな世界は、俺の目指すものとは到底受け入れがたい。
「……よし」
俺は短く息を吐き、決意を固めた。
「全員、俺の家に来い。うちで雇ってやる」
まずは全員を屋敷に連れ帰り、風呂に入れて身ぎれいにさせた。
そして、温かい食事を腹一杯食わせる。
ガツガツと、まるで何日も食べていなかったかのように食事にむさぼりつく子供たちの姿に、胸が詰まる。
とにかく、まずは健康を取り戻すことが先決だ。
それから、彼らに仕事を与えていくことにした。
手始めに、俺が取引を始めた農家を回らせて、卵や鶏肉などの食材を集めさせる。
子供たちは、初めて与えられた「仕事」に戸惑いながらも、懸命に取り組んでいるようだ。
さらに、俺は屋敷の離れに、パンを焼くための石窯を作らせることにした。
これで、パンの内製化に取り組むわけだ。
小麦を挽いて粉にするところから、天然酵母を混ぜて生地を発酵させ、そして石窯でふっくらと焼き上げる。
その全ての工程を、子供たちにやらせてみることにした。
勉強については、明日香さんとイルサさんに任せることにした。
特にイルサさんには、子供たちに英語を教えてもらう。
このグローバルな港町、横浜で生きていくには、英語は必須のスキルになるだろう。
「明日香さんも、時間がある時に一緒に学んでくれ。あんたにも必要になるはずだ」
「はい、先生。喜んで」
二人が子供たちの面倒を見ている間、俺は別の計画を進める。
まるで、大きな事件の全体像を組み立てていく探偵のように、一つ一つのピースを嵌めていく。
子供たちが来てから、屋敷の食卓は目に見えて豊かになっていった。
特に、自分たちで焼いた柔らかいパンが毎日食べられるようになったのは大きい。
俺は次に、あんパンやジャムパンといった、少し甘い菓子パンにも挑戦させた。
あんこ作りも、季節の果物を使ったジャム作りも、子供たちは目を輝かせながら取り組んでいく。
失敗を繰り返しながらも、やがて安定して美味しいパンが作れるようになった頃、俺は次の手を打つことにした。
俺は第二国立銀行を訪ね、屋敷の購入でお世話になった課長の浜中さんを訪ねた。
「パンの販売先、ですか?」
「ああ。子供たちが作ったパンなんだが、これがなかなかの出来でな。どこか、買ってくれるようなところはないだろうか」
浜中さんは少し考えた後、ポンと手を打った。
「それでしたら、先生が最初にご宿泊されたホテルの支配人をご紹介しますよ。あそこなら、新しいもの好きですし、あるいは……」
話はトントン拍子に進んでいく。
まるで、仕組まれたゲームのようだ。
数日後、俺は銀行の会議室でホテルの支配人と顔を合わせていた。
試食用に持参したあんパンと、この季節に採れた桃で作ったジャムパンをテーブルに並べる。
商談には、なんと銀行の頭取である柳澤さんも同席していた。
「いやはや、驚きましたな、先生。お薬で事業を始められたとばかり思っておりましたが、今度はパンの販売とは。実に手広い」
柳澤さんは、ニヤリと笑いながら俺をからかう。
やれやれ、この人も食えない人だ。
俺はお茶を濁しながら、パンを口に運んだ支配人の反応を固唾を飲んで見守った。
「……ほう」
支配人は、一口食べるなり、目を見開いた。
「これは……美味しい。特に、こちらの桃のジャムパンは素晴らしいですな」
よし、食いついた。
すぐにパンの注文を頂けることになった。
銀行を交えて条件を詰めていく。
まずは、あんパンと桃ジャムパンをそれぞれ十個ずつ、一個一銭で十日間、試しにホテルに卸してみる。
それで評判が良ければ、本格的な取引に移る、という話でまとまった。
「子供たちにも、お金を稼ぐということを教えたいんです。自分たちの力で生きていく術をな」
俺がそう言うと、柳澤頭取は「感服いたしました」と深く頭を下げた。
小妓楼での梅毒騒ぎも、俺の治療と定期健診のおかげですっかり収まり、患者が連日運び込まれてくるような事態はもうない。
たまに潜伏期の患者が訪れるくらいで、俺の日常はペニシリンの増産方法の工夫と、この新しいパン事業の方にシフトしていくことになった。
子供たちには、ジャム作りからパン作りまでを任せ、そして売り上げから給金を支払うことにした。
自分たちの労働が、金という具体的な形になる。
その経験が、彼らを成長させていくことだろう。
ホテルでのパンの評判は、俺の予想以上だった。
十日も経たないうちに、ジャムパンは「横浜の新しい名物」とまで言われるようになっていく。
あんパンの方は、十年ほど前から銀座の木村屋が販売していることもあり、ホテルに来る日本人には知られていたようだが、それでも「あそこのパンは一味違う」と評判は上々だ。
値段はホテル価格でかなりお高いらしいが、飛ぶように売れているという。
そして、ついにホテルと本格的な契約を結ぶことが決まった。
数を増やし、安定的に納入していくことになる。
まるで、小さな成功を積み重ねていく探偵のように、俺の計画は着実に実を結び始めていた。
ウィスキーグラスを片手に、俺は横浜の夜景を眺める。
さて、この街で、次に俺が解き明かすべき謎は、なんだろうか。
物語は、まだ始まったばかりだ。




