第八章 怖くて、寒くて、熱くて、苦い
「高鳴る鼓動は本当に君だったのか」
「僕の人生が始まる、ずっと、ずっと、ずっと前から」
「美しい世界は連なって」
「夢物語は夢じゃなくなって」
「そこに、居たんじゃないのか…」
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「今日は何の絵を描こうかな…。」
秋らしく紅葉?それとも、この秋を閉じ込めた海、深海を泳ぐ世界、青色…空を染める絵具…ソラ…。
「…。」
一番最初に出会った時。彼は、壊れそうなぐらい、歪んで病んだ表情をしていた。
それを象る色彩は、恐ろしいくらい鮮明で、その感情を詞に、唄に、歴史が残してきた形に成る事を望んで。溢れる言葉の一つ一つが、彼が創造にセンスを持っている事実を告げていた。
「…。」
情熱を焼き尽くされる前に、何かに手を取って欲しいと思う。現実とは違う世界で、触れて欲しいと…私はそう想っている。
「今日は…カレイドスコープに閉じ込められた、人魚姫かな…。」
絵具を拡げる。キャンパスに描く瞬間、心が弾むたびに完成していく。
「この色彩の卵から…彼がいつか抜け出されたら…良いのにな。」
だから少しだけ、罅割れを作っておこう…。ガラスの卵に、白銀の罅を入れたら、美しい壊れた絵画で、人魚姫が海の外を見つめていた…。
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「…。」
時計の音だけが鳴り響く。神経を阻害する嫌な音が脳内で狂ったように暴れ出す。
「そんな簡単に…。」
指先で天井をなぞった。
この手が針と糸を持てるのか…ペンを握り、紙に文字を書き。美しい作法と、易しい笑みだけ…小説は沢山読んだ、勉強は嫌いではなかった。
「…。でも…。」
青く滲んだ夜の海が世界を覆う。
大きくなる惑星、小さくなる太陽、本当に好きだった、物語は何処に行ってしまったんだ…。
「:まだ間に合うか?:」
零れ落ちそうな、流星の欠片を…。
「:造れるのか?…俺に…?:」
冷たく透き通った、夜更けのグラデーションを…。
そう呟いた瞬間、バイブレーションが部屋を覆いつくす。震える瞳で、携帯の画面を見て、声が零れる。
「あ…あ…っあ…。」
絶望はそうして、希望より深く沈み、易々と蝕んでいく。喉の表面が冷えて、息を吐いたら、肩の痛さに表情の歪みを感じた。
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「数日留守にするんだ。夕食を…。」
「わざわざ作ってくれたの?」
「うん…。」
冷え切った瞳に一瞬、心臓が心拍を飛ばす。私の驚いた表情に気付いたのか、ソラが作り置きの惣菜を渡して、背を向けた。
「あ…何処に行くの?旅行…とか?」
「…いや。」
困ったように、夕焼け空の下でソラが私を振り返って、言葉を濁す。赤く…紅く…世界が終わるみたいに、朽ち果てた機械がコスモスを引き抜く。
この瞬間を切り取って、絵として描き起こしたい。そう願うほどに、鮮烈な色。
「大学は?」
「…土日に行くだけ…月曜は授業ないから。」
「そっか…。」
暗い瞳に青ではなく、茜色の空が映る。手を重ねたら彼の感覚に染まってしまうかもしれない。
だからこそ…私は、彼を美しいと形容したんだ。
「何処へ行くの?」
「…。」
私の追及に、ソラが一瞬たじろぐ。でも、彼の瞳をまっすぐに見つめたら、ぽつりと呟いた。
「ただ…実家に帰るだけだよ。」
彼に手渡された総菜が、肩が痛くなるほど、重みを増した気がした。
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「…。」
ソラが帰った後。自室に戻った私は、惣菜を冷蔵庫に入れて、今日はどれを食べようか、見繕っていた。
「あ…ほうれん草のお浸し。」
肉じゃが、野菜炒め、ひじき煮、炊き込みご飯、美味しそうなご飯。胃に優しい、薄めの味だけど、食べると暖かくなる料理。
どんな気持ちで作ったんだろう?
私に出来ることは…?
「そうだ…。」
私には絵を描くことだけ。料理だって出来ない、未来も分からない。寂しさも孤独も、一人で暮らし始めて…でも、ソラに触れて。
「奇麗だな…。」
カーテンの向こうへ、視線を送る。
星々の煌めきと、夕焼けの余韻が混ざる。カウンターイルミネーション。
深海を泳ぐ、魚は地上を知らない。海の雪は死を連ねて、再生される。
「絵を描く…。」
私のスマホのチャット欄に、メッセージが一件追加された。
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「お久しぶりです…。」
「空さん。貴方、大学には通っているの?」
「はい…。」
「空。痩せ細って、みすぼらしい。ただでさえ、肉付きの悪いのに。」
「すいません…。」
へらりと笑うと、両親の前に机を挟んで座る。畳の上はガサガサと居心地が悪く、正座をすると、昔受けた罰を思い出すようだ。
「その…私を心配していると…。」
「一度も帰ってきてないじゃないか。実家に。」
「えっと…。」
「だから、医学を学べと。専門の資格を取れないような学問なんて…。」
「あ…。あはは…。」
座布団の上に座る父の顔を、一瞬たりとも見れないで息を殺す。別に、今の学問を学びたかったわけではない。何となく…親から離れたかっただけだ。
「院生には成るのか。」
「え…っと。」
「まだ、学生の身分でいるなら、せめてもっと良い大学を受けなさい。」
「その…。」
頭が回らない。自分が吐く息だけが大きく聞こえて答え方が分からない。
「残念だ…。」
「…すいません。」
俺は何回、謝ったんだろう。大学のことだけじゃない、他にも…色々…。震える腕を、片方の手で掴む。
「自分の部屋へ…。」
「あれは物置にした。客室に行きなさい。」
「…。」
立ち上がると、礼をして、カバンを手に客室へと、母によって案内された。
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「空さん。お父さんは貴方のことを、考えて。」
「大丈夫です…気にしないで。」
母から今日の夕食にと、食事と飲み物を貰う。父の顔は、もう何年もまともに見れず、忘れてしまった。
母の顔は、目の前にいる母の顔は、俺によく似ている気がするが、瞳だけは違った。
「それと…良い人を紹介も出来ますからね。」
「え…。」
「そういう手もありますから。」
「私は…。そんな…。」
奇麗に着物を着こなした母は、溜息をついて、若い人はいけないわ…と言って、去っていった。
「俺は…。」
その場にへたり込んで、ぼんやりと感情の行く末を見守る。視界が曇っていて、あまり上手く言葉に何かを表せない。
「この場所は…嫌いだ…。」
夕食に手を付ける気も起きない。シュオと食べるご飯はあんなに美味しかったのに、現実は…。
「エプロンなんか、作ってどうするんだよ…。」
何にもならない…だろう。
何も…解決しない…。
「シュオ…。」
俺は、客用のベットに横たわると、疲れ切った脳内を休ませるように、目を閉じたのだった。




