第七章 少し慣れた足取りと、成れぬ鴉は俯いて。
「悲しくて」
「忘れたくて」
「その勤勉な心に愛を送るんだ」
「君に摘まれた花…」
「勇者が勝ち取った道…」
「僕らの未来は、誰かが切り開いたんだよ」
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「…。」
教授が書く伝達関数の計算式など頭にも入らない。四角と矢印がこちゃ混ぜになった、英数字は美しさの欠片もない。少なくとも俺はそう思う。
「…。」
教科書の隅に、少女の絵を簡易的に描く。その腕を、胴体を、足を、覆う布がどう垂れ下がるのか、どこで布地が留められるのか。
考えながら、板書を片手間に済ます。
「おい…。」
「ん…?」
隣から話しかけられ、俺は教科書を閉じて、レオの方を見た。今日は白シャツに銀のアクセサリー。黒のワイドパンツ。相変わらずお洒落だ。
「何してんの?」
「…。」
答える気を失くしたので、板書の方に集中する。ブロック線図をノートに書き込む。フィードバックを付け加え、外乱の伝達関数を書いたところで、再びレオに肩を叩かれた。
「何?」
「お前って、絵上手かったの?てか、絵描くの好きだったりするのか?」
「…別に。普段描かない。」
絵が上手?そんなわけがない。美しい絵、独創的な絵、不思議な絵。世の中には様々な絵画があって、その全てに作者の人生が、物語が詰まってるが。俺の描く様な絵は、誰かの模造品だ。
シュオが描く様な、哲学的で、どこか夢を見ているようなのに、その土台に旗を掲げる意思がある、そんな絵は…俺には描けない。まあ、描きたいという気も別にないが。
「レオは…描くのか?」
「俺?音楽の方が好きだし、絵は昔っから下手なんだよなぁ。画力センスゼロってやつ。」
「…。」
「…。無視かよ!?」
レオの声が微かに教授の耳に届いたのか、ちらっと白髪の教授が俺達を見るが、何か…若いねぇとでも言いたげな顔をして、再びブロック線図の解説に戻る。
「音楽…何が好きなんだ?」
「俺、前にバンドやってるって言ったじゃん!サークルでAntinomyって名前で。」
「気に入ってるのか…?名前…。」
「いやぁ?ボーカルのやつが勝手に決めただけ。」
二律背反…悪くはないけど、聞くと背中がざわついて、片腕を握り締めたくなる感覚がある。
「Antaresとかにでもしたら?」
「なんで…?てか、アンタレスって何?」
美しい星…燃え盛る火星に対抗する毒を持った、心を毎分毎秒突き刺すような音楽性。
「…。」
「また黙る!…折角、最近喋ってくれるようになったと、思ったのにさぁ。」
彼には似合わないかもしれないと思った。
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「んで、さっきは何描いてたんだ?」
「…うるさい。」
キャンパス内を足早に歩く。夕飯までには帰って、シュオの晩御飯を作らないと…。俺のもだけど…。
今日のご飯は…少し秋らしいものにでもしようか。美味しそうに食べるシュオの表情を思い返して、思わず笑みを浮かべる。
「それでそれで。ソラくんは、何を考えてるのかな~?」
「…汚いから離れろ。」
「辛辣かよ!?」
くっついてきた彼から、すっと腕を離す。ゴシゴシと触れた個所を擦ると、呆れたような表情をレオが浮かべた。
「潔癖症…。」
「別にいいだろ。」
そのまま立ち去ろうとしたが、ふと思い直して、レオの眼前にカバンから取り出した、システム制御に関する教科書を開く。その片隅に、先程まで描いていたイラストがあった。
「…ん?」
「服を…デザインしてたんだ…。」
「お前が?」
「…うん…まあ…。」
学生たちの声が鳴り響く。なんの不幸も知らないような声で哂う。己の俗っぽさを嘲る。傍の噴水から溢れる水音が、やけに耳に障った。
「へー…奇麗なラインだな…ソラが着ても似合いそうだ。裾も広がってて、ふんわりしてて。」
「これは女性用だ…。」
レオの台詞を聞いて、思わず口を挟むと、彼が軽い笑い声をあげて、首を振った。
「細かいこと、気にするなってぇ。」
「はぁ…。」
砂利道を歩きながら、デザインの感想を幾つかレオに尋ねる。彼は、俺の後ろを付いてきながら、素直に問いかけに答えてくれた。
「…実際に作れると思うか?」
「うーん…着たいのか?」
「だから、なんで俺が着る前提なんだ。」
呆れて、大学の入り口付近で振り返ると、レオが俺の教科書をじっと見ながら唸っていた。
「ふんわり感って、どうやって出すんだ?」
「…分からん。」
「生地とか工夫すれば出来るのかな…。」
「…。」
レオから教科書を受け取って、じっと自分が描いたデザインを見つめる。どれほど、高尚に描いたって、造り出すには知識が必要だ。想像は、簡単に現実にはならない…。
「…スーパー寄ったら、帰るよ。」
「俺も一緒に行く~。」
ちらっと彼の瞳を見上げる。溜息をつくと、完全に背を向けて、俺はその場を立ち去った。
「…ついてくるな。」
「えぇ~…。」
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「難しいな…。」
動画越しに授業を聞きながら、白いノートパソコンへ、カタカタと古語の意味をメモしていく。ふわふわした縫いぐるみの小鳥ちゃんを撫でながら、私は少し眠い目を擦った。
「あ…あらまほし?星?魔法の星?」
勉強をすればするほど、絵画の世界はより一層深みを増す。知らなくては描けない構成が、この世にはある。けれど、国語は…特に、漢文や古典は苦手だ。
「物理とか…数学は良いんだけどな。」
青く滲んだ空を見上げる。雲がウサギみたいな形をして、可愛らしいなと思う。動画を聞いて、テストを受けるだけの学校…。それでも、いつかこの雲が、もくもくと私に手を振る理由が分かる日が…訪れるかもしれない。
「頑張ろ…。」
けれど、次の動画を再生する手を一瞬止める。
「や…やっぱり、今日は先に数学からしようかな。」
大学に通ってると言っていた、ソラなら漢文や古典も難なく熟してきたのだろうか?でも、理系大学ならもしかしたら、ソラも数学や物理以外は、不得意だったのかもしれない。
「ん…このお菓子美味しい。」
この間、彼が買ってくれたサクサクのクッキーを手に取って、朝ごはん代わりに食べる。仄かな甘さと、授業を続ける先生の声に、私は静かに耳を澄ましながら、今度はノートに多次元の方程式を書き込み始めたのだった。
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「ねえ、ソラって古典とか得意だったりしない?」
「え…?」
「私は数学とか、理系教科が得意で。」
「意外だな。」
ソラが調理してくれた、焼き鮭と白いご飯、それに味噌汁を啜りながら聞いてみる。ホクホクの鮭と、味噌汁の組み合わせの美味しさに、日本人らしく舌鼓を打ちながら、ソラの次の言葉を待った。
「…俺は、何となく親に言われるまま、大学に入っただけで。得意教科とかも…別に。」
「模試とか受けなかったの?」
「受けたよ…まあ、比較的…理数系の教科が点数良かったかな。現代文とか歴史は苦手だった。」
「そうなんだ。」
「うん。」
暗い夜空が、ソラの前髪をサラリと流して、心地よい秋風が彼の表情に深みを持たせる。
「小学校の時は?」
「え…あぁ…家庭科とか…かな。」
「ご飯美味しいもんね。」
じっと黙って、ソラが私を見る。
「シュオは?やっぱり、図画工作とかなのか?」
「うん。絵を描いてる時が、一番楽しかったかな。粘土でコネコネするのも楽しかったけど。」
「そっか…。」
ソラがお茶碗を持ったまま、少しだけ姿勢を崩す。青色の混じった色素の暗い瞳が、少しだけ和らぐ。
「エプロンとか作らなかったか?」
「作ったかも?」
「裁断して、縫って、それだけだったし。別に上手くもなかったけど…俺が何か一つのモノを、作れたって言う。その経験が…嬉しかった。」
微かな微笑を浮かべた、ソラの顔。こんなにいっぱい話してくれたことは、初めてかもしれない。やっぱりソラは…。
「作ってみる…とか?」
「え…。」
「おっきい物を作るのは大変だけど。難しいことはエネルギーが必要だけど。折角だから、エプロン作ってみたらどうかな…。」
ソラが、ぼんやりとした顔で、私の顔を見る。彼は鮭を口に運ぶと、考えとく…と小さな声で、呟いたのだった。




