第五章 この『映像』が恋しいか?
「損傷した手足、アスファルトに浸み込む、水の音」
「何処までも続く絶望と、夢の中でも苦しいと」
「モノクロの花束を抱えたら、微笑む君が…」
「僕に手を伸ばしていた」
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朝目が覚めたら最悪だった。二日酔いにでもなったように、頭が痛み続ける。吐き気が込み上げて、思わず洗面台に駆け込んだが、鏡を見た瞬間に昨日の記憶がよみがえった。
少女との邂逅、慰め、素晴らしい絵描きが共有してくれた小説的な描写。吐き気の代わりに、悦に入った笑みが溢れる。求めていた物が与えられた、その幸福で手が震えだす。
「はぁ…。」
天井を見上げたら、白熱灯が淡々と光っていた。
「…んで、微分方程式の教授がさぁ。レポートじゃなくて、やっぱテストにするって。」
「はぁ…。」
「AIで皆さん解くんでしょうから、テストで実力を見たいって…こんな量の公式覚えろってのか?」
ぼんやりと買ったジュースを飲む。ストローを噛んだら、思考がクリアになった。
「あー。教科書持ち込み可じゃなかったか…。」
「まっじで?」
数学の教科書にしては、少々厚めの教科書を彼が閉じる。今日の服は、真っ白いシャツに、ジャージ素材の黒ズボン。アクセサリーをアクセントに入れているようだ。
「てか、同じ週に物理基礎もあるじゃん。」
「…多分、教科書持ち込み不可。」
「最悪だ…。」
呆然と学食の少し汚い天井を彼が仰ぐが、俺は首を振った。
「そうでもない。」
「なんで?」
「教科書なくても解ける問題しか出ない。って事だから。俺はそっちのが楽。」
「えー…。」
勉強するほうが面倒だ。
コンビニで買ったココアを飲みつつ、教科書を片手にカレーを食べる青年を見つめた。
「というか、出題範囲決まってるんだから、そこの部分だけ覚えとけば良いじゃん…。」
「お前本当に理系か?」
「別に…卒業できればいいし。」
ふいっと視線を逸らすと、いやいやそう言うことではなくと、相手に言われるが。素直な感情は出せずに、言葉が詰まった。
「まあ…。いいや。てか、今日元気そうじゃん。」
「…え?」
目の前の青年を見つめる。ちょっと勝気そうな、でも優し気な顔立ちの、同い年の…人。
「俺のこと、いつもは見えてなさそうだし。なんか、ソラ良いことあった?」
「いや…。」
別にと言いかけるが、ふとあの少女が脳裏によぎる。じっと、いつも一緒にいてくれる彼の存在を確かめると、その意見を肯定した。
「確かに…。」
「だろ?」
辺りを見渡す。何人が談笑している人々がいるが、三限の空きコマなせいか、人は少ない。
彼…蓮生が急に隣に座ってくると、スプーンの持ち手で俺の唇を突いてきた。
「え…汚…。」
「そのくらい気にすんなよ。潔癖症め。」
思わず押しやると、やれやれと首を振られた。
「普通に不快。離れろ。」
「はぁ~。」
甘ったるいココアを飲み干す。
俺は立ち上がると、四限の授業へ向かう為に、カバンを肩に掛けた。
「ちょっ…待てよぉ。」
レオが慌てたようにカレーを引き寄せて、一気に掻き込むと、トレーと教科書を手にする。
「急すぎる…てか、苛立ちを行動にすぐ移すなよ。」
「…別に。そんなんじゃない。」
最もな意見だとは分かってはいるが、素直に肯定が出来ない。そんな俺の胸中を知ってか知らずか、レオはやれやれと首を振ったのだった。
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「ん…もう朝?」
目覚めと共にカーテンを開ける。眩しい光と、もうてっぺんまで昇った太陽に、既に朝ではなく昼であることを悟った。
「ふわぁ…お片付けしないと…ご飯も。」
寝間着のパジャマのまま、段ボールがいまだ散乱している部屋を抜け、キッチンへ立つ。冷蔵庫を開けたが、からっぽで何も入ってない。
「うぅ…。」
仕方ないと、家から持ってきていた、小さな洋菓子が沢山入った袋を開ける。それをパクパクと食べながら、部屋をぐるりと見渡した。
「…私…ここで暮らすんだ。」
小さな白い机の上に、パソコンや教科書、筆記用具。それに、今使っているスケッチブックを置く。
「オンラインの授業はこの机で受ければいいよね。」
段ボールに入っていた、クマやウサギの縫いぐるみを取り出して、ベッドの上に寝かせ、パソコンの傍には小鳥のふわふわなキーホルダーを添えてみた。
「可愛い…。みんな持ってきてよかった。」
各種の色彩が並ぶ絵具、番号が付けられた筆…絵を描く道具を全部取り出して、持ってきた収納棚を展開して、奇麗に整頓した。
「部屋の半分は…絵を描くスペースかな。」
真っ白な布を部屋半分に、養生テープで貼って、絵具で汚さないようにする。その上にパレットや水の入った瓶を置く机や、キャンバス、イーゼルと言った大きな画材道具を、取り合えず立てかけた。
「問題は…。」
段ボール箱は片づけたけど、今日食べるご飯も無ければ、生活必需品も何もない…。手つかずのまま、ピカピカなキッチンと洗面所を思い出して、私は頭を抱えたのだった。
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「もう…夕方か。」
レオと大学で別れて、アパートまで戻ってきた。秋風が心地好く、ぼんやりと夕空を見つめる。
「…。」
理工学部三年。大した才能もなく、両親には見放され、県外に出たのは良いものの…。
「別になぁ…。」
本棚に寄りかかって、ちらりと雑誌や書籍を見る。
「…。」
シュオの絵画は素晴らしかった。多様な解釈と、美しい物語性を秘めた、壊れた鏡のような絵柄。再現不可能な色彩は、恐らく彼女の瞳に映った世界だ。
「買い物でも行くか…。」
冷蔵庫にはもう何もない。財布だけ持って、靴に足を突っ込むと、俺は玄関のドアを開けたのだった。
「あ…。」
「…。」
ちょうど良く鉢合わせた少女が、驚いたように此方を見上げる。長い黒髪が、風に揺れて瞬間を彩った。
「え…っと…。こんにちは?」
「あ…ああ。」
どうしようかとお互い視線を交差させて、困惑していたが、やがて俺の方から口を開いた。
「スーパー行くところなんだが…。」
「あ…私も。」
彼女の持つ可愛らしい色彩で描かれた、猫のトートバックを見て、ふと笑みがこぼれる。
「一緒に行く?」
「…良いの?」
夕方の赤色がシュオの真白のワンピースに反射して奇麗だ。彼女が描く絵画だけでなく、彼女自身もまた作品のようだと感じた。
「リアリティが欠けるなぁ…。」
「…どうゆう事?」
愛らしいと感じる部分は、その一瞬を現実に捉えられるのに、儚く美しい憧憬は俺の心から現実感を失くしてしまう。
「何でもいいじゃないか。」
「…うん。」
そう言って、俺が笑みを浮かべると、少女は困惑したように首を傾げていた…。
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「昨日、引っ越してきたばかりだから…生活用品も何もなくて…スーパーも何処にあるか分からなくて…。」
「…それは困ったな。」
死ぬことより美しいことはないと思う。夕焼けは深く染まり、夜の訪れは星が滅亡する瞬間を捉える。
SF映画だったら、ラブストーリーで締め括られた、人生の一説。けれど、現実は違う。
夕焼けを背景にしただけで、死を連想する己の自我が疎ましい。ただ、じわじわと苦しさが押し寄せている。夕焼けの先にある宇宙に、足が捉われてしまったように、重く動かない。
「ありがとう…助かった。」
「うん。」
はぁっと息をついて、近くのドラッグストアへ入店する。白すぎる光に息を詰まらせながら、困ったように買い物かごを手にした、少女の背中を見つめた。
「どうした?」
「…人って生きていくのに何が必要?」
俺は買い物かごを、シュオから奪い取ると、歯磨きやら洗剤やら、ティッシュ箱も、トイレットペーパ、キッチン用品まで、手あたり次第に入れ始めた。
「多少は分かるだろ、要らないものは元に戻せ。」
「覚えられないよ…場所。」
「じゃあ、渡してくれたら俺が戻す。」
ドラッグストアにして正解だったようだ。これだけあれば生きていけるだろう、商品を全部買い物かごに詰め込むと、食品売り場に向かった。
「あ、ジュース欲しい。」
「どれ?」
「カルピス。あと、ぶどうジュースも。」
もう一つ何も入ってない買い物かごをシュオに渡すと、そこに俺が買うものを入れていく。まあ、コーヒーと食料品を買いに来ただけだ。大した量じゃない。
「ソラは何を買うの?」
「ん?…まあ、鍋にでもしようかと。」
椎茸とキムチ、そして豚肉を手に取る。あとはもやしでもあれば良いだろう。
「お前は?何も食料は買わないの?」
「私、料理したことない…。」
なぜ、この子は一人暮らしを、この年齢で始めたのか…。しかも、料理も出来ないのに。何か事情はあるんだろうが、頭を振ると、暫くは俺の家で食うかと提案した。
「昼飯は無理だけど。夕飯は作るよ。」
「え…でも、大変じゃない?お金とかも…。」
「別にいいよ。」
シュオも食うならと、俺は豚肉をもう一つ、買い物かごの中に入れる。少し考えて、鍋に入れたら美味しそうなのでマロニーも買った。
「…生活用品って高いんだね。」
「まあ、一気に買ったからもあるけどな。」
シュオが持っていた、猫のトートバックだけでは入りきらなかったので、軽いものだけ袋に入れ、後は貰ったビニール袋に、全て押し込んで俺が持っていた。
「私も、鍋食べていいの?」
「…そう言う話じゃなかったのか?」
シュオがふと、嬉しそうな寂しそうな顔をする。俺が狼狽えて、彼女の赤茶けた奇麗な瞳を見つめると、小さく微笑みを返したのだった。
夕焼けの瞬間を縫い合わせて、デザインされた服を身に纏ったことがある。
それは美しかった、でも、この手でもっと洗練したいと思った。これじゃ足りなかった。胸の奥がモヤモヤして、デザイナーの無能さを嘲った。
「シュオ…。」
君には、どんな色彩を持つ服が似合うんだろうか?その芸術性を引き立たせる青?少女性を突き詰めた真白?それとも、紅葉の一欠けらを表現する?
でも、きっと俺には…そんな服は描くことも作ることも出来ない。ただの凡人なのだから。
「…っ。」
そう言いかけた声は出せず。ただ目の前の少女に、想像の中、様々な服を着せ換え、自分の思考の気持ち悪さに吐き気がしたのだった。
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「いただきます。」
「どうぞ…。」
煮立った鍋を前にして、照明も付けぬまま開け放った窓から零れる月と星の灯りを頼りに、白い皿へ具材を装う。椎茸と柔らかく煮えた豚肉、もちっとした触感のマロニーを箸で口に運んだ。
「ピリ辛…美味しい。」
「それは良かった。」
キムチの味をベースに醤油で味付けされた鍋は、濃すぎない味で食べやすい。君は食べないの?と、首を傾げたら、藍の瞳を暗く陰らせていたソラも、皿とレンゲを手に取った。
「物が少ない部屋だよね。」
「色々置いても…邪魔になるだけだろう?」
簡素なテーブルと椅子があって、ベッド脇に小さい本棚があるだけ。白に統一された部屋には、観葉植物以外は、衣装ダンスがあるだけだった。
「ミニマリスト?」
「…そこまで意識してない。」
すいっと目を逸らして、青年が赤く染まった鍋つゆをレンゲで掬って飲む。繊細で整った顔が、一瞬だけ辛さに表情を変えるが、すぐに無に戻ってしまった。
「思ったより辛いが…大丈夫か?」
「平気だよ。」
優しい街の明かりが遠くに見える。淡くグラデーションを付けたような夜景。絵画にしなくても、今の一瞬が絵として、私の記憶に残る。
キムチと一緒に、ピリ辛の豚肉ともやしを食べながら、冷たく心地い風を感じていた。
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「たくさん雑誌があるんだね。」
「別に勝手に見て良い。」
夕食を終えて、ソラが後片付けをしている間、ベッド脇に置かれている本棚をちらと見ると、ファッション誌のようなものが数多くあった。
「ありがとう。」
「別に…。」
手に取ってみると、どれも奇麗な布地が、人間の肌を覆っている美しい表紙で彩られていた。中には、実際に服を作る方法が記載されている本もある。
「服飾に興味があるの?」
「…。」
後片付けを終えたらしいソラが、カーペットの上に座っている私の隣に座る。一冊の雑誌を抜き出すと、ぱらぱらとページを捲った。
「そんなんじゃないけど…でも…奇麗だとは思う。」
青く透き通るような布地、デザインもシンプルで着心地の良さを重視した、でも見る人が振り返るような壮麗なデザイン。
単なるシャツとズボンとは、言えないような、空の世界から抜け出してきたような、紙に印刷されたその服を、ソラの指が撫でる。
「作るの?」
「…。」
眉根を寄せて、黙ったままのソラを見て、出会ったばかりのこの青年に対して、知らないことが多すぎることを感じた。
「シュオは…。」
「ん?」
「君は何で絵を描き始めたんだ?」
「え…っと。」
それと同時に、彼もまた私を知らないんだと。冷たさの中に、微かな悲哀を感じさせる、ソラの瞳を見つめ、思ったのだった。




