第二章 眩んだ色は、煙る彼方へ
「もう良いかい?」
「数え切れない後悔で、工場の煙が黒く染まってしまったんだよ。」
「まだ、絶望は訪れてない、と。」
「君は太陽みたいな、瞳を少し陰らせて笑ったんだ。」
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「…。」
スーパーの袋を足元に落として、疲労のまま床に沈み込んだ。冷蔵庫が開けっ放しだ、冷たい心地が頬を冷やす。
「またあの子に会いたいな…。」
青い洋服を着せたい、茜空をモチーフに彼女の素肌が、傷つかないような繊細さを持つ柔らかい生地で包みたい。
「…頭冷やすか、それか針で刺すか…。」
真っ赤な跡だらけで心地良い。不必要な嘲笑を脳裏に響かせて、面白くて頭を抱えた。このまま壊れてしまいたい…。
「久々に、視界を隠して。外に出るか…。」
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「あ、えっと…手続きは…。」
「もう既に済んでるから、鍵を渡したら終わりよ。」
「はい…。」
大家さんらしい女性に部屋の鍵を渡され、私はほっと溜息を付いた。アパートには着いたものの、どうしたら良いのか考えていたら、彼女は車から出てきて鍵を渡してくれた。
「高校生?学校遠いわよ、此処から通うの?」
「通信制なので…学校に行くのは数ヵ月に一回…。」
「そう。」
冷たく言葉を返され、少しだけ心臓が縮む。何も互いに言わないまま、少しの時間だけが経った。注意事項など、説明されると思っていたのだが、大家さんは背を向けてしまった。
「じゃあ。若いからと言って、隣人に迷惑をかけないように。」
「はい…。」
不安で満ち始めた私は、ぎゅっとカバンに下げられたクマのキーホルダーを握り、大家さんが帰るのを見送ったのだった。
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鍵を開けて、誰も居ないことを確かめる。言葉にしてしまったら陳腐だが、いっそこの世の誰も消えればいいのにと思う。
「…。」
薄ら笑いを浮かべた自分を振り払い、灰色の世界を遮る布に触れた。優しい太陽が身を貫く。鳥が飛び立ち、指が痺れ、雲の流れは速く、星々は円を描き、枯れた喉に水を求める。
「ああ…。」
人の生き死には、ニュースキャスターが読み上げ、破壊されたビルは炎を焼き付けた。スラム街に蔓延る病魔のように、俺の脳はぐずぐずと掻き回され、その激しさに思わず快感とも呼べる刺激を得た。
「どこ…行こうかな。」
指で指を吊り上げる。鬻ぐ感情で白線を引き、空へ透過して見たら、ふと幻が見えた。目の奥が熱を帯びていく、黒髪を風に揺らして、何か待つように遠くを見ている…。
「君は…。」
白いワンピースに散った秋桜が、先程の記憶を呼び起こした。俺には気付いていないらしい。不安気に、小さなクマの縫ぐるみを握っていた。
「だけど…。」
こんな俺が話しかけたら、怖がられてしまう。特に、あんな幼い少女に…。俺はすっと視線を逸らすと、アパートの二階から階段を降りて、彼女の居る駐車場に立ち寄ることはなく、そのまま別の場所へと向かったのだった。
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金網のフェンスに指を絡めた。最近の記憶は断片的で、常に頭がフラフラしていた。夕焼けの赤が、心を焼き尽くすように、俺を諦めて仕方ない…。
「…。」
過去のことも、最近では思い出せなくなった。辛うじて、大学には通っているが…それももうどうでも良い。誰かに触れられる運命も、心を奪われるような出来事も、怯えた心情では碌に受け取れやしない…。
「この場所は、心地が良いな…。」
絶望と夕焼け空を仰げば、風が凪いだ…。君は暁に、欲は痺れを渇望して、麻薬の陶酔に溺れていく。自己欺瞞の精神が薄く裂け、こんな感情に苛まれて…。俺は、因果に失笑した。
「喉を…。」
両手で締めたら、曼荼羅の素晴らしい幻覚を得たが…。
1億Hzの多次元方程式…戦争に生きる人間共は群衆となり、厄介さを売りにした将軍へ敬礼。三流芝居に手を叩き、略奪の娯楽が催し物だ。10月2日が祝日で在り、暴力さえ荒廃した地では正当化される始末。三原色で踊る少女は、抱かれることでしか夢を持てない。
手を伸ばして、救いを求めて、さあ目を覚まそうとした所で…はっと息を呑んだ。
「…。」
結局は何も無い…。ただ、ラダー回路に埋め尽くされた滑稽な主人公のように、カラカラと音を立てる赤い風車に俺は、地面へ座り込んだ。一体何をしているのだろう…。
「あの少女だったら、違う人生を送っただろうな。」
血が出るまで解れた金網で、自分の手を傷つける。じっと、その色を見るが灰色に染まった世界では、その色彩を認識する事も叶わない。
「それでも…生きて…死んだら…ダメだって…分かって。」
涙が溢れてぼやける視界。もう限界なのだろう。他人事のようにそう思って、渇いた喉に息を吸い込んだ刹那。運命に呼ばれて、俺は視線を上げた。
「此処なら、誰も来ないだろうし…。良い空間かも。」
「…。」
その感情を共有できる、誰かを俺はずっと求めていた…。受け止めきれない世界の醜ささえ、幸せに変わる程の…それこそ運命と言う名の不道徳に手を染める、この瞬間を…。
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荷物の搬入も終わり、たった一人残された部屋。ワンルームの小さな空間で、段ボール箱や、縫いぐるみ、画材道具に囲まれて、開け放った窓から吹く風を浴びていた。
「…。」
染まり出した空へ、飛び去る鳥を見つめる。何が悪かったのかは、私にも誰にも分らない。だけど、確かに言えることは、此処で生きていくこと。
「この場所で、夕焼けを待ってはいられない…。」
私がどんな感情を持って、胸が締め付けられて、理不尽だと叫び出したいのか、その理由が未だ、分からない。輝く黄金色の、燕達が私に囁くけど、言葉にするのは難しい。
「大丈夫…。きっと、描けるから。」
いつかはこの気持ちも、パレットの色が全て表現してくれる。今はそれだけを信じて、私は私の色を、願い星のように染めていればいい。
「よし…。」
画材道具が入ったカバンを、肩に掛ける。新しい部屋の鍵、戸締りも、ガスの元栓も、これからは自分でやらなきゃいけない。
「絵を描きに行こう。」
玄関の扉を開けて、サンダルを履く。茜色が輝きを放つ、夕方の焼け空。涼やかな風が秋を告げ、込み上げた寂しさを私は受け止めたのだった。
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「何処へ行こうかな…。」
スマホでマップを開いてみたが、近くのお絵かきスポットなど見つかる筈もない。当てもなく彷徨っていたら、迷子のようになってしまった。
「どうしよう…。」
小道を抜け、黒猫を追いかけ、陽が沈む方へと歩いてみる。少し郊外の寂しい場所。水路にはキラキラと輝く魚が泳いで、ススキに紛れるように、秋桜が咲いていた。
「…。」
背の高い雑草越しに、煙の立つ工場が見えた。まるで…ここに来る前に、私が描いていたような破棄された場所。
「此処なら、誰も来ないだろうし…。良い空間かも。」
「…。」
プロペラの廻る風車を描こう。優しい秋風に吹かれた、寂寞に満ちる秋桜を。誰より優しい感情で描きたい…。そう想って、スケッチブックを取り出した瞬間だった。
遠く彼方へと伸びる、私のシルエット。けれど、斜陽に照らされて…影が…2つ?
「え…?」
驚きに手が震えてしまい、スケッチブックが地面に落ちる。長い髪が風に揺れている、私の良く見知った小さな影。それよりも大きな、知らない誰かの黒い影。
「…っ!」
慌てて後ろを振り返った、私の視界に映ったのは…。美しいレース模様が施された白い布で、両目を覆った、背の高い青年だった。




