第一章 モノクロームに滲む色
糸が解ける。結べない、歪む、解ける。青が滲み、ポツリ、波紋、涙、頽れ、嗚咽。同化した三原色、カラーテレビを付けて僕は遊び耽り、嗤い怒る。
「そうか…人間の海だ…。」
嫌われた痛みが、胸の内に固結びされて吐き出せないうねりが…。
「どうしても、赦せないな…。」
朝の空はモノクロで、ぼんやりとした視界に映る。スマホの画面を付けたら、快晴のマークが在ったが、俺の眼には青色が映らない。僅か寒さを感じて、薄いシャツを上半身に羽織ったが、背中の痛みに負けて呻いた。
「今日も講義…。教科書とノート在ればいい…。」
シンプルで何もないような白い部屋から、必要な物を搔き集める。雑多に髪を縛り、鏡に己を透過させて身嗜みだけは整えた。
「俺の眼って…何色だったっけ…?」
有体に言えば黒。でももっと違う色だったような…。真っ白で何もないガラスみたいに、灰に埋もれた自分を見つめ、指を軽く曲げた。
「おはよう。」
「あ…うん…おはよう。」
決まりきって、笑みを浮かべる。固まった身体を動かして、腕を曲げる。首筋の痛みは気にしない。強張る標識と赤く点滅して止まない、そんなサイレンを見ない振りする。
「課題やったか?」
「あーうん。」
「偉いじゃん!俺まだやってなーい。」
「うん。」
こんな自分に話しかける人物がいることに、ただただ驚くばかりだ。
「学食食い行こうぜ。」
「ああ、そうだな。」
何もないガランドウな日々。ふと、俺を引っ張るように学食へと連れて行く、青年の服が目に入った。赤いチェック柄、黒いスニーカー、白シャツ。シルバーのアクセサリー。
「君って…。」
「ん?なんだ?俺はカレーにするけど。お前は?」
「え…と。」
狼狽えと震えが一瞬にして、全身から滲み出る…。やっぱり言えない。何も言えない。俺はこんな物、何も好きじゃない。
「うどんかな…。」
「それ以上、モヤシになってどうすんだよ~。」
貧相な身体を包む白シャツと、黒いズボンを見た。ぎゅっと肘を掴むと、そこに皺が寄った。それすらも奇麗に見える、自分は異物だった。
「あはは…。」
そんな愛想笑いはもう尽きて、俺は自分の肌に爪を立てるように。強く肘を握った。
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秋桜の香りに誘われ、私は工場の煙が向かう先を描いた。夕焼けの空は、漆闇より美しいインディゴに混ぜた橙色が似合う。風に吹かれて、花弁が夕陽に飛び交う情景を臨んで、小筆を走らせたら、背後で扉が閉まる音がした。
「もう行っちゃうの?まだ、完成してないのに…。」
私は絵の具で色彩を移した、指先を伸ばす。涙が溢れると、絵の世界も滲んでしまう。鉄柵の向こう側で、煙を吐き続けるマントルを見過ごして…。人は大切な物を、沢山失ってしまった。
「ごめんなさいね。もう手続きは終えてるから。」
「でも…。」
運ばれていく、私の部屋の大切な宝物達。この部屋で君達に会うことは、もうないんだろう。痛くて震えだした心を隠すように、私は絵の続きを描こうとパレットを持ち直した。
「午前中には退去しないといけないのよ。」
「…。」
せめて完成させたかったな…。この絵の続きは、もう訪れることはないんだろう…。
「分かった。片付け手伝うね。」
「ええ、助かるわ。」
私はエプロンを脱いで、画材道具をしまい込むと。キャンバスをイーゼルから外して、手を洗いによく見慣れた淡い色使いのキッチンへ向かったのだった。
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イヤホン越しに使い古した音楽が流れる。再生、暗転、再生、終結、暗澹を繰り返し、絶望を浴槽に埋もれた眼窩に収める。汚く剥げた壁伝いに、教室を移動しようと立ち上がるが嘔気を感じ、身体が崩れ落ちた。
「おい!大丈夫か…?熱か何かあるんじゃ…。」
「…いや、昨日夜更かししすぎて。深夜アニメ一気見…みたいな。」
アニメなんて見た事が在っただろうか。カセットテープを並列で戻したら、青い深海魚とキスが出来るだろうか…。秋桜に狂った描写で美しい…布切れを傑作と呼べるのだろうか。
「ごめん…。大丈夫だから、先行っててくれ。」
「本当か?」
自分が気持ち悪くて仕方ない。黒鳥が窓の外を影となって飛ぶ。鴉は不吉にも、肩からずれ落ちて床に転がったカバンを引き裂いていく。雑多な人々の声、抽象的なエデンの末裔。
胃袋の震えは止まらず、思わず縋るように首筋へ手を当てたが、弱さの証明だと納得して、立ち上がることを促す、彼の手を見つめた。
「飲みにでも行く?…今日じゃなくて、体調良くなったら。」
「俺、未成年。」
すぐに分かる嘘を付いて、全てを誤魔化した自分は、不思議そうに首を傾げた彼に、口角を上げた笑みを見せた。
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白鳥の群れ…。玄関先に飾られている、画廊から取り寄せた絵画が、大した保護もないまま詰め込まれる。トラックの荷台へ、次々と放り込まれる私物達。美しく飾った貴婦人は、何か引っ越し業者と話し込んでいるようだが、私は茫然とその様子を見つめていた。
「桜、お金は持ってるわよね?足りなければ、銀行から引き落としてちょうだい。」
「うん…。」
「横浜駅まで行けば、すぐにアパートが見えるはず。通信制高校のビルも近くだから、今日中に行って入学案内を貰ってくるのよ。」
少しだけ息を吸ったら、自然と笑顔が作れた。バサバサと背後で色の抜けた烏が空へと飛び去る。水溜りが跳ねて、虹が架かったような気がした。
「大丈夫…。ありがとね…ママ。」
「そう。じゃあ…元気でやるのよ…。」
ぎこちない別れ。最低限の荷物以外は、もう道路の上を走っている。肩掛けカバンの横で揺れている小さなクマのキーホルダーを握って、私は母に背を向けたのだった。
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止まらぬ胃袋の収縮と、自らへの嫌悪感。よろけながら俺は帰路についていた。
小さな少女のブルーバックなスカートが翻る。煙草を吸う男の、黒い革ジャンが青空に映えて目を奪われる。高校生達の制服、蒲公英のようなカーディガン。手を隠すオーバーサイズなパーカーの青年。陽光が眩しくて、白銀の世界で誰もが微笑んでいた…。
「っ…う゛。…気持ち悪…。」
口元を抑えてベンチに座り込む。誰からも声を掛けられないように、イヤホンを耳に差し込んだ。音楽など聴いていない。自己嫌悪、怠惰な日常、抑揚のない人生が続く。
「生きていたくない…。」
口から泡と午前三時。針金の人形が、モノクロオーディオに、フラッシュLightを着飾ったTVと踊り出す。乾いた笑いは、義足を首に巻いたエゴイスト。凄まじい感性が欲しくて、主人公は何者にもなれぬ天命を、快楽のアタッシュケースに、持ち込んだ。
素晴らしい。素晴らしいと、褒め称えられたくて…ただそれだけの夢だったんだろう。
「意味がない…。」
それが現実であるとするなら、青い幻覚で愛に飢えたクジラ。若しくは天文学的な正解に導かれた、精神異常者。悲しみに涙が零れて、思わず薄命な世界を呪い、それを悔む…悔む…悔む。
「…っ?」
ただ、一瞬視界を霜雪のような少女が通り過ぎ、俺の視界が染まった。
長い黒髪が優しく流れて、遠くを見つめる希望と暗闇をよく理解した瞳が、壊れたように涙を溜めて。秋桜の柄が、肌に散った洋服に思わず手を伸ばしかける。
「奇麗…な人だな…。」
どこか幼く見える彼女は、俺を一瞥することもなく。雪兎のように儚げな仕草で、青空が続く彼方へと歩き去っていったのだった。
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並木道を歩いている。紅葉が咲き誇って、美しいアーチを描き出す午後4時。差し込む陽の光が眩しくて、思わず手で庇を作った。秋特有の静けさと、疎らに遠い過ぎる人々を画角に収め、白い布製のカバンからスケッチブックを取り出した。
「奇麗な花…。」
人物画は得意ではないけど、黒い影のように見立てて主人公はサフラン。秋の暖かさでも、冷たく冬の気配を纏い続ける、美しい花。紅葉の散る螺旋と、街灯のように光景を感じる人々。サフランが発する拒絶。
「色鉛筆しかない…水彩絵の具も入れて来ればよかった。」
デッサンを書き進めていく過程で、ポツリと呟いたら後ろからポンと肩に手を置かれた。
「え…?」
「すまないね。怖がらせてしまったかな?」
茶系統のコートに、アイロンがきちんとされたワイシャツ。黒いズボンの下には、磨かれたブーツを履いてるらしい。少し遠くに、白髭で賢そうな表情をしたお爺さんを、優しく見守るお婆さんの姿も見えた。
「素晴らしい絵を描いてると思ってね。絵描きさんかな?」
「高校生です。奇麗な青い花が咲いていたから…。絵を描きたくなって。」
「そうか…。」
お爺さんは微笑むと、私のスケッチブックをじっと見つめて、少し寂しい絵だと言った。
「靑にも様々な色が在るんだよ。」
「群青・紺・藍・浅葱・スカイブルー・ネイビー・シアン…」
他にもたくさん、人と文化と国の数だけ色は増えて混じり合う…。
「どんな色が、この絵には似合うだろうか?」
サフランの青がどれかは知っている。けれど、この絵の主役として最も際立つ絵具のパーツは何だろう?
「藍は暖色に染まった季節で、どうしても浮くから…。」
「そうだね。」
頷いたお爺さんはふと、絵具を私に何本か渡してきた。そして、決まりきった番号を付けられた、絵筆を添えて…。
「自然界で青はなくてはならない色だ。」
「水や空…。」
心の中ではカラーパレットを既に開いている。流れ出す膨大な自然光を、無彩色と言う有限の色覚に置き換えた私は、お爺さんが持つヘーゼルの瞳を歓喜のまま見つめた。
「貴女が満足のいくレタッチを、この世界に施せばいいんだよ。」
「…!」
お爺さんが渡してくれたパレットへ絵具を絞り、描き出す。
「じゃあ、私達はそろそろ。」
「え…えと…ありがとうございます!」
精一杯感謝を伝えようと微笑んでみたら、柔和な笑みを二人が返してくれた。
そよぐ風が心地いい。少しだけ絵具の付いた真っ白なワンピースが、ふわりとそよ風に誘われる。美しい世界で、邂逅した人々の言葉で完成した、私だけのスケッチを抱くと、涙が出るようだった。
「きっと大丈夫…。きっと私は…。」
青年が座る、ベンチの前を通り過ぎ。私は、これから独りで住むことになる、アパートへと歩みを進めて…。背後で凪ぐ季節をそっと閉じたのだった。




