16
「一〇三五番、阿左美ちひろ、面会希望者がきているが」
「拒否します」
わたしは廊下で会った刑務官にそう告げた。
いつものことなので、彼は小さくうなずいて、書類になにかを書き込むとすぐに歩き去った。
誰だろう。野田か、もしかしたらオーナーか、……姉かもしれない。
誰にしたって会おうとは思わない。わたしはもうあの人たちとは別世界の人間なのだから。
一日が始まる。
刑務作業をこなし、食事をとって、また作業をこなす。
夕飯をとり、三日に一度の入浴。
規則通りの時刻に消灯。
その生活のどこにも、エイコの姿はなくなった。
彼女はここでの超法規的存在だ。その気になれば労働をせずに済むし、誰とも会わずにもいられるのだろう。
おそかれはやかれ、こうなることはわかっていた。
殺人者というつながりがあっただけで、わたしと彼女はあまりに違いすぎた。彼女がわたしに過剰な期待をしているのも知っていたし、自分に近づけようとしているのも感じていた。
だから、わたしが自分を貫く限り、絶対に相容れない相手だった。
よくしてもらえたし、仲良くも……なれた気がした。けど、いい。わたしは誰にも頼らず、何にも縛られず、ひとりになって、自由になると決めたんだ。父を殺したのがその新しい人生のスタートだった。
そう。
父を……殺した……ことが。
真っ暗な部屋で目を開ける。
考えごとをしていると、眠れなくなって、さらにまた考えてしまう。
ひとつの生命をとめたあの瞬間。
たしかにわたしは何も感じていなかった。
わたしはひとつのスイッチを切っただけだ。それ以上の意味なんてない。
なのにこの違和感はなんだ。
芯から震えるような寒気はなんだ。
わたしの存在をおびやかすような、この胸の苦痛はなんだ。
なんでわたしは、今、あの果物ナイフがわたしを刺したように感じているんだ。
気づくと、目の前のベッドに、暗闇よりももっと暗い闇が居座っていた。
心を刺される感覚が強くなった。
「染まるしかないんだ」
その言葉が頭にフラッシュバックする。
「まともじゃだめなんだよ」
「エ……エイコ、なの?」
わたしは闇にたずねた。
昨日まで彼女がいたはずのベッドで、それはうごめいている。
「あなたは、ずっと、わたしをとりこもうとしていたの……?」
闇がひろがっていく。
「その、真っ暗ななかに……。うっ」
闇の粒子が肩をなでると、体ではなく、わたしの感覚すべてが暴れて、ひっくりかえりそうになる。
「うああ……あ……」
逃げなきゃ。そう思ったけどもう遅くて、闇は頭の上や背中のほうにまでまわって、わたしを包んだ。
あ、
だめだ。
まっくらで、
わたしが揺さぶられる。
『わたしは父を殺したようで、実は自分を殺していた』
おそろしい事実。
『自らにすら認められない魂は崩壊するしかない』
それは認識したと同時にわたしを襲う現実。
壊れる。
だめ。
消えちゃう。
わたしは穴だらけになって、
散り散りになって、
数百万のかけらになって、あ、あ、あ……。
あ……あ。
バラバラになったたくさんのわたしが、わたしをみているよ。
それぞれはだあれ……?
ぜんぶわたし……?
こわくていたいって、全員がいってる。
わたしたちが輪になって、わたしをみているけれど、そのぜんぶをみているわたしがそのまわりに大勢いて、そのわたしたちもさらにまわりのわたしたちにみられていて、それは無限につづいていて、そして、
みんながいっせいにまばたきをしたとき。
すべてがきえて、
うまれる。
「――っう、あああああ!!」
たっぷりの汗をかいたわたしはベッドから転がり落ちた。
黒い闇がまだ下半身をまさぐっていた。
「やだ! 嫌ああぁ!」
這いずって抜け出すと、服はぼろぼろで、皮膚からはところどころ血が流れていた。
――あ、あたまのなかになにかいる。
そう思ったと同時、わたしは頭を振って床に打ち付けた。
目から、鼻から、口から、黒い液体が溢れ出てきた。わたしは激しくむせた。打った額がじんじんした。でも、脳で感じられる空気は、一気に透明になった。
この闇に触れられると……体内に入られると、すべてがぐちゃぐちゃにさせられる。めちゃくちゃに壊される。
こわい。
こわれたくない。
もう、つかまるのはいやだ!
裸足で、リノリウムの床を蹴った。ドアを開いて、振り返りもせずに廊下を走った。
うしろで激しい破壊音が鳴った。背中がぞくりとした。追ってきてる。闇が、壁を壊して、見境なしに、わたしだけを求めて。
廊下の端に刑務官がいた。
「どいてぇ!」
わたしは彼のそばを通り抜けた。
すると、ぐちゃ、という音が聞こえて、横目に見た視界のなかで、ちぎれた彼の四肢が宙を舞っていた。
見なかったことにしてまた駆け出す。
闇が壁を削って横から迫る。
ちょうど歩いていた受刑者がそれに飲まれて、悲鳴が途切れ、血と肉片が飛び散った。
逃げて逃げて、逃げまわって、
闇自身が壊した壁を抜けて、ドアを開けて、走って、開けて、また開けて、
――外に出た。
振り返った先で、刑務所は膨張した黒い粒子によって内側から破壊された。
「うっ……うわああっあ……!」
わたしは草むらをひたすら走った。
闇が追いかけてきて、何度も追いついた。
ぞくぞくする背中と混乱と恐怖の中で、わたしは光をみた。
それは夜闇に煌々とかがやく白いドアだった。
なにも考えずに、それを開けて中に飛び込んだ。
「――――はっ」
目が覚めた。
そこは、あの廃ビルだった。
自宅付近の……。父を殺す前に待機していた……。あの廃ビル……。
ポケットを探った。
取り出した果物ナイフは、きれいなままだった。
傍らに転がったスマホには、殺人犯が書いた手記のようなブログが表示されていた。
わたしは……寝てしまっていたんだ。
前日はオーナーのところから逃げてきてほとんど徹夜だったから、ここで、自分が今からしようとしていることをスマホで調べながら夜を待つうちに、まどろんで……。
さっきまでのは、夢……。
殺人も、逮捕も、刑務所も。
金髪の受刑者アリタエイコも、黒い闇も。
「よかっ……」
くずれたベランダから入る月明かり。
コンクリートの床にぽつんとついた黒い染み。
それが徐々にひろがっていく。
ぞくぞくというあの感覚がよみがえる。
その闇はまだ小さいのに、すでに無限に膨張しているように感じる。
「なんで、こっちにもいるの……。ゆめじゃ、なかったの……」
背後の、ビル内部に目をやった。
逃げなきゃ。とにかく、階段をおりて、走って、どこでもいい、こいつがこないところまで。
「あっ」
立ち上がろうとしたけど足に力が入らなかった。わたしは床に倒れ、持っていたナイフが、錆びついた階段を跳ねて落ちていった。
……だめだ。立てない。足が勝手に震える。
闇が迫ってくる。
まだ触れられてもいないのに、あの、ガンガン、ぐちゃぐちゃ、バラバラというカオスが頭の中によみがえる。
静かな安らぎをもたらす死のほうが、魅惑的に思えてくる。
なぜ、わたしがこんなめに。
わたしが、なにかしたっていうのか。
なにかを間違えたのか。
これは……罰だっていうの?
いやだ、またこわれる。
やだ。やだやだやだ……。
「こわいよ……助けて……。助けて!!」
わたしの叫びは建物の中に反響して消え、
静寂が空間を満たした。
その無音の中。
錆びた階段が立てる心もとない鉄の音が響いた。
……カン、カン。
「ちひろよお」
彼女はゆっくりとわたしの前を通りすぎた。
「やっぱりだめだな。おまえみたいなやつは」
闇がひろがって、その体を包んだ。
「悪にそまれないやつは……こっちにきちゃだめなんだよ」
彼女は腕を広げた。その手は、ひろがった闇をしっかりと掴んでいた。一歩、前に進むと、闇が一歩、後ずさる。そしてそのまま、ふたりは、壊れたベランダへ――。
「じゃあな」
彼女はいった。
月明かりの下、その横顔は、ほかのだれでもない――わたしに似ていた。
そして一切を理解した。
彼女は、憎しみと殺意にのまれた、もうひとりのわたしだったのだ。
「エイコ……!」
彼女は闇とともに目の前から消えた。
カラン、と音がした。
身を乗り出して下を見た。
四階下の地面に落ちていたのは、あの果物ナイフだった。




