15
「ちひろー」
とエイコが呼んでいる。
だるそうな声で。
「ちーひーろ。おいー」
わたしは天井を見つめている。
「おいって! なにぼーっとしてんだよ!」
ぱん、と目の前で手を叩かれて、わたしはハッとした。
「あ、ごめん……」
「ごめん、じゃねえよ。なんか魂抜けてたぞ。体調悪いんじゃないのか」
「いや……」
といいつつ、自分でも今のは変だと思った。
呼ばれてるのはわかってたけど、反応がまったくできなかった。別になにか考え事をしていたわけでもないのに。
疲れてるんだろうか……。
「熱とかないか? いや、なくても休んどけ。三日ぐらい。大丈夫、あたしがいっといてやるから」
「ありがとう……」
体が全くきつくないのに休むというのは初めてだったので、どきどきした。
というか、学校はどんなに熱があっても行っていた。わたしの家のことを好き勝手いう連中に、わたしを否定する餌を与えたくなかったからだ。
今思えば、あいつらはある意味で正しかったと思う。わたしの家はたしかに狂ってた。それに早く気づけたら、今のこの運命も変わっていたのだろうか。
……変えたいのか。わたしは。
『今』が間違ってるって思ってるのか。
でも、間違っていても、もう戻れないじゃないか。
昼間からベッドで横になっていると、疲れてもいないのに寝てしまう。
夢を三つぐらい見て、変なふうに目が覚めて、布団の隙間から部屋をうかがった。
黒い影が、壁の前でうごめいていた。
刺すような悪寒に襲われた。
「……」
声がでない。悪夢だろうか。でも目に映る映像は鮮明だ。
わたしは、夢であってほしいと願って、瞼を強く閉じた。
目を開けると、影はきえていた。
わたしは起き上がり、着替えて、作業所に向かった。
エイコに、まだ寝ておけといわれたけど、
「大丈夫。……人のいるところにいたいの」
エイコは探るような目つきをした。
「……。ま、いいか。なんか体が変だったらいえよ」
いつもの冗談もいわない、その真面目な調子に、心強さを感じた。
と同時に思った。
なんでこんなにも、わたしはこの人に気に入られてるんだろう。
*
数日が経った。
わたしはなるべく人といっしょにいるようにして、トイレまでエイコについてきてもらうようになった。
一日の作業が終わって、製品を倉庫に直しこんだ。仕事上、こうしてひとり作業になってしまうことはたまにあるけど、まわりに人はいるし、問題は起きていない。
作業場から収容棟に戻ると、廊下に人だかりができていた。
「お……ちひろか。いいとこにきた」
中心にいたエイコが振り向いていった。
「こいつがさあ、おまえの悪口いってたんだよ」
彼女は勢いをつけて、床のあたりを蹴った。
実際はそこに人が倒れていて、鈍い音とともにその頭が揺れた。
「おらっ」
もう一度蹴った。
取り囲む人たちは、それをただ見ているだけで、止めようともしない。少し離れた場所に刑務官が立っていたが、彼すらも見てみぬふりだった。
「ゆるせないよなあ」
エイコはそういって、今度は相手の腹を蹴った。すると体がよじれて、顔がこっちを向いた。
それは若い受刑者で、わたしの見覚えのない人だった。
彼女の顔は苦痛にゆがみ、涙で汚れていた。
「ちひろをバカにするってことは、あたしをバカにすることでもあるんだよ。あたしたちは同じ殺人者なんだから。でもなんか、あたしをバカにされたよりもムカつくなあ〜」
エイコはもう一度蹴った。
楽しそうな顔だった。狂気じみた顔。
「やるときはやらなきゃ」「徹底的にぶっこわせ」……以前、そういっていた。
きっと、これが彼女の本性だ。
「エイコ」
わたしはいった。
「……殺すの? そんなんじゃ、一生ここから出られなくなるよ」
周りがざわついた。少し、倫理的にズレた発言だったかもしれない。殺した経験のない人にはわかりづらい感覚か。
エイコは笑った。
「そこまではしないよ。したっていいけど、めんどい。また裁判しなきゃだろ。こういうクズのために使う時間は一、二分が限界かな。……なあーちひろ、おまえもやれよ」
「え」
心臓がどきっとした。
「こいつ、おまえの悪口いってたんだぜ。あたしにくっついてる金魚のフンだってよ」
「……まぁ、そうだし」
「えーっ、認めちゃだめだろ、おいおいー」
「……わたし、プライドとかないから」
そういって離れていこうとした。
「ちょっ、ちょっ、と、待てよ、待て待て」
エイコが三歩ぐらいで追いついて、壁に手をついて道を塞いだ。
「プライドとかそういう話じゃない。もっといえば、これはおまえがどうありたいとかいう話でもないんだ」
彼女はすこし変なくらい真剣だった。
「こういうやつを、のさばらせておいちゃならないんだ。こいつは、おまえの敵で、おまえは敵を倒さなきゃならないんだ。敵をさあ、片っ端からぶったおさなきゃなんないんだよ、あたしたちみたいな人間は」
「……」
倒れている受刑者を見た。
ぼろぼろだった。わたしは目を背けた。
エイコはため息をついた。
「これはさ、おまえのためなんだよ。なあ、おまえ、まともだろ。まともじゃだめなんだよ」
「エイコみたいにぶっとべってこと?」
わたしは冗談めかしていった。
けど、エイコは笑わなかった。あくまで真面目な調子で、
「まともなやつが人殺したらだめだろ」
「……」
「だめなんだよ。あたしみたいなおかしなやつならいいけど、まともなやつがそんなことしたら、なんていうか……拒否反応でるんだよ」
エイコは倒れた受刑者に近づくと、その胸ぐらを掴んで放り投げた。
受刑者はわたしの足もとに転がった。
「ちひろ、自分を守るには染まるしかないんだ。……悪にさ」
エイコは受刑者を指さした。
「やれよ」
わたしが動けずにいると、
「やれ!」
ナイフみたいな鋭い声で命令した。
しばらく、無音の時間が流れた。
「わたしは……」
うつむいたまま、ぽつぽつとつぶやいた。
「父が自分にとっての障害だったから、殺した。……ただ、それだけ。だから、この人を痛めつけなきゃいけないなんて思わない……」
「甘いんだよ。こいつは、おまえを否定したんだ。いいかちひろ、殺人者はな、自分を否定するやつ全部を黙らせなきゃいけないんだ!」
「わたしは、否定されたっていい……」
「だからそれが甘いって――」
「わたしとあなたは違う!!」
その言葉で、わたしとエイコのあいだに、無限の距離ができた気がした。
「……う。……な、なんだよ、くそ……」
エイコは下を向いて、辛そうな顔をして、背を向けた。
そうして彼女が去っていくのを、わたしは何もいわずに見ていた。
またタイトルを戻したというね
よくわからなくてすみません




