13
ノブを回せば勝手にひらいてしまうおんぼろのドアを開け、どんなに慎重を期しても悲鳴をあげる床板を踏んで、わたしは一歩一歩近づく。廊下の先にある父親の寝室へ。
手にした果物ナイフの、鞘を指だけで外す。――カラン。薄暗闇に響く音。
わたしはそこにたどり着く。
襖を開けて、ナイフを構える。
父親は布団で寝息を立てていて、わたしはわたしを突き動かす力に乗ったまま飛び込み布団をはがしてその胸に刃を突き立てる。
「ぶふっ、ち、ひろ」
「クズ人間……。おまえの最後の言葉がわたしの名前であってほしくなかったよ」
もう一度突き刺す。
顔に何かがかかった。あたたかい。父の口から漏れた血だとわかった。
彼の胸に、ナイフづたいに触れたまま数秒が過ぎた。
びくびくんという気持ちの悪い痙攣がおきて、それが終わると、胸部の動きも、口から出ていた血あぶくも消えて、生命が終わったのだとわかった。
あっけない。
こんなことで、十数年間自分をとりまいて悩ませていた状況にかたがつくなんて。
「――っ!」
背後を振り向いた。
そこには薄暗い廊下があるだけだった。
……『マネージャー』が襲いかかってくる予感がしたが、気のせいだった。一度、想像のなかでだけど、押さえつけられて抵抗できなかったトラウマが残っているのか。
できれば『マネージャー』も消してしまいたかったが、そこまでできなくても問題はない。結局彼は、父を通してわたしと繋がっていた。こんないいかたはしたくないが、父さえいなければ彼は他の少女に目をつけて、わたしとは赤の他人のままだったのだ。本質的に無関係な人物にそこまで執着はしたくない。
胸に手をあてて、自分が、思ったより落ち着いていることを確認する。
大丈夫。わたしは正しいことをした。こいつは……、
父の死体を見下ろす。
……こいつは、死んでよかった。というか死ぬ必要があった。瞬間、ゴキブリが廊下をさっと通って、わたしはそれをなんて尊い存在だろうと思った。
ポケットからスマホをとりだした。
マナーモード、静かに増え続ける着信。
野田にいうことは……あえていうなら、これまでごめん、くらいだ。それすらもいえないけれど。
わたしはわたしの運命にけりをつけた。もう誰にもそのことで迷惑をかけることはないし、これからは、『一』ずつでもいい……プラスの人生が待っているんだ。
電話画面を開き、三回のタップをして通話を押した。
「もしもし。わたし、人を殺しました」
*
それからわたしは、社会が決めた手続きどおりに、逮捕、勾留、裁判を経て、収監された。
世の中でわたしのことがどのように報道されたかはわからない。オーナーがどうなったかも。
だけど、わたしは裁判でありのままを話して、求刑よりも軽い判決だったから、オーナーの状況もすこしはマシになったんじゃないか。
それでも、会いたいとは思わないし、彼の今を知ろうとも思わない。わたしは誰かの人生に関わっていい存在じゃない。人を殺したっていうことの、それくらいの対価は払おうと思う。
刑務所には刑務作業という労働があって、安い文具の検品とか、本気でなんなのかわからない製品のパーツの検品とか注意書きの封入とかをやった。
これの辛いところは、このやりがい皆無な仕事をほとんど無給でしなければならないことらしいが、わたしはべつに、ここにいること自体暇つぶしとしか思っていなかったし、時間が少しでも早くすぎるのならいいやと思っていた。他の人たちは退屈でむしろ遅く感じるようだったけど。
まわりは年上の女性ばかりで、たまに同年代もいたけれど、誰とも仲良くはできなかった。
話そうと思わなかったし、こちらが殺人罪でここにいることがもう噂になってたのか、ある程度避けられていた。
友達をつくるっていう夢みたいなものも、もう叶わなくなっちゃったな。
いいよ、何年かここにいて、外に出てからもそういうのはなしでさ、ひっそり暮らすんだわたしは。本でも読みながら。
いつもどおり、ビニールに入った何らかの部品のひとつを抜き取って捨てるという作業をしていると、近くで誰かが立ち止まった。
よそ見は注意されるので、手元から目はそらさずにその正体をさぐった。……監督かな。五十代のおばさん監督役受刑者。わたしはだいぶ模範囚だと思うんだけど、まさか目をつけられてるのだろうか。
「おまえ、人殺しのやつ?」
思ったより若い声が聞こえてきた。監督じゃないとわかったので、わたしは視線を上げた。
そこにいたのは、わたしと同年代に見える女だった。
まぶしいくらい脱色された金髪で、服も着崩していた。
わたしはうなずいた。
「へえー。あたしも人殺し。噂で聞いたから、挨拶しとこうと思って」
彼女はいかにも悪そうな、片頬だけの笑みを浮かべた。
「いいんですか。作業中だから私語は」
「いいのいいの。ここじゃ顔がきくんだよあたしは」
そしてわたしの耳元に口を寄せて、
「いろんなやつの弱み握ってるからね……。監督もいいなりなのさ。刑務官もあたしならかなり見逃してくれる。ほら、これあげるよ」
ポケットにタバコ一箱を入れられた。
「ありがとう。でも、吸わないんですけど……」
「バカだなあ。おまえは吸わなくても吸いたいやつは大勢いるだろ。欲しいものと交換すりゃいいんだよ」
「どうも……」
すると背中をぽんと叩かれた。
「ま、がんばりなよ。あたしエイコ。アリタエイコ。おぼえといて」
彼女は去っていった。
不良……。バリバリの不良だ。オーナーもちょっとそんな雰囲気があったけど、ここまでじゃなかった。正直、初めて接するタイプの人だ。
あれ、でも……、
あの人の顔、どこかで見たことがある。
……まぁ、気のせいか。知り合いなわけないし。名前も聞いたことがない。
監督がやってきたので、わたしは慌てて手を動かした。
*
「よおよお」
と、翌日、食堂で朝食を食べているとエイコがやってきた。
「一緒に食べようぜ、ちひろ」
「あ……、でも、班が」
ここでは十数名の班行動が原則だ。食事のときも例外じゃない。座る席の移動は固く禁じられている。
「ああ、あたしも今日からここの班だから」
「え、そんなことあるんですか」
「うん。普通はないよ。だからいったじゃん。顔がきくって」
何でもありか……。すごいな。
「おんなじ人殺しだからさあ、何かあったら守ってやるよ、あたしが」
と笑い、向かいに座って彼女は中華定食を食べはじめた。
……心強い、のか? よくわからない。
不良からは目をつけられてばかりだったから。
「ほら、まわり見てみなよ」
と彼女はいった。わたしは見回した。
誰もが媚びた笑いでこっちを見ていた。
さっきまでは全員が異物を見るような顔をしていたのに。
エイコを恐れているのだ。
「ああやって、ヘコヘコさせときゃいいのさ。いいか、舐められたら終わりだよ。バカにされたら終わりなんだ。そういうのほっとくのは、自分で自分をバカにしてるのと同じなんだよ」
……それは、すこしわかる。
ここまでしなきゃとは思わないけど。
「エイコさんは、なんでそんなに」
「最強なのかって?」
……まぁ、ききたいのは概ねそういうことだ。わたしはうなずいた。
「ハハッ。やっぱり、強いからだろ」
椅子にのけぞって彼女はいった。頭の悪そうな答えだけど、誰にも文句をいわせない迫力があった。
「あたしは誰にも負けねえんだよ。ハートが強いからな」
この怖すぎる女からそんなかわいい単語が出るとは思わなかった。
「ケンカはハートが折れたら負けだからなあ。あー、でも、強いだけじゃないんだよな、あたしは」
身を乗り出して彼女はいった。
「――ワルいんだよ」
ひひひっと笑って、チャーハンをかきこんだ。
「ふつう人がやらないとこまで踏み込むんだよ、あたしは。だから負けないんだ。ま、参考にしな」
ぽんと肩を叩かれた。
わたしは苦笑いした。




