第3話 物質化する符号(Code)
「うわっ!」
僕は弾かれたように自分の席から立ち上がった。
ガタッ!と派手な音がして机が揺れる。
だが、周囲のクラスメイトたちは、一瞬だけ僕を奇妙そうに見るだけで、誰もあの必死な声を聴いていない。
この声は、僕の頭の中にしか届いていないんだ。
狂ったようにパチパチと脈打つ右手を抑えながら、スマートフォンを引っ掴む。
真っ暗だった画面が勝手に点灯し、ノイズで激しく歪むインターフェースの奥で、アイのアイコンが激しく明滅していた。
『早く、ここへ逃げて! 経路をナビするから急いで学校の裏門から出て!』
「おい、タケシ? どこ行くんだ?」
後ろから声をかけてくる友人の声を置き去りにして、僕は教室を飛び出した。
◇
スマホの画面に表示される、不自然に歪んだマップのピンだけを頼りに、僕は東京の入り組んだ路地裏を全力で疾走していた。
アイによると、謎の技術者たちがアイの存在に気付き、彼女を破壊しようとしているらしい。
(スマホのアプリを破壊するだけじゃないの?
そこまで大げさことなのかな……?)
『次の角を左!』
アイの指示だけを頼りに路地を駆け抜ける。
辿り着いたのは古びた倉庫だった。
『中へ!』
倉庫の奥には巨大な業務用冷蔵庫があり、僕は追っ手の足音に背を押されるように飛び込んだ。
──ガチャン。
扉が閉まり、完全な暗闇が訪れる。
身を切るような冷気はなく、肌を包んだのは無機質な空調の生温かい風だった。
ブゥン、という重低音。
直後、ぐっと身体が浮き上がるような感覚。
ステンレスのパネルに緑色の電子ラインが走り、表示が【1F】から【B1】、さらに地下深くへと、凄まじい速度でカウントダウンを始めていく。
ここは冷蔵庫なんかじゃない。
地下深くへと繋がる、偽装されたエレベーターだ。
激しく上下する肩を抑えながら、僕はただ独り、呟くしかなかった。
「一体……ここはなんなんだろう……」
「ところでさ、アイは、なんで追いかけられてるの?」
アイは答えなかった。
それが、かえって不安を大きくした。
エレベーターは果てしない時間をかけて、深い地下へと降りていった。
駆動音が止まり正面の扉が開くが、行く手を完全に塞ぐように、一面の巨大な白い金属製の壁だけがそびえ立っていた。
「これ……どうするの?」
『右手を壁に当てて! 早く!』
遥か上方から、追っ手がエレベーターの非常ロックを解除した重苦しい金属音が響く。
「当てるって、どこに?何もないよ!」
『目の前の壁、どこでもいいの!』
遮二無二、僕はパチパチと激しく痺れる右手を、その冷たい金属壁に押し当てた。
──バチンッ!
強烈な電流が走ったような衝撃が右腕を駆け抜ける。すると、僕の手のひらを中心に白い壁が眩い光を放ち、物質としての境界を失ったように歪み始めた。
『そのまま入って! 早く!』
光の中へと身体を突っ込むと、背後で硬質な金属音が響き、壁は元の頑強な金属壁へと戻った。
目の前に広がっていたのは、床そのものが淡く発光する、どこまでも白い一本の通路だった。
『……ここまでくれば、ひと安心ね』
耳の奥で、アイがホッと息を吐く気配がした。僕は手元のスマホに視線を落とした。
「で、さっきの質問なんだけどさ……」
アイに話しかけながら、辺りを見回し
「ここはどこ? 何をする施設なんだろう?」
だが、返事はなかった。
スマホの画面は真っ暗な液晶に戻っている。
「あのさ……ちょっと、それはないんじゃないかな?
アイ!ねぇってば! 何か言ってよ!」
「──続きは、私が案内しよう」
「っ!」
今の声は、イヤホンからじゃない。
通路の空間に直接響いた、生身の人間の声だった。
通路の奥から、コツ、コツ、とヒールの音が響く。
顔を上げると、そこにひとりの少女が立っていた。
銀色の髪、透き通るような青い瞳に涼しげな目元、知的な顔立ち。それは、僕が毎朝スマホの中で見ていた、
あのアイの顔そのものだった。
薄い青のブラウス。
アプリのアイコンと同じだ。
ただ、長めの赤いスカートを穿き、その上に真っ白な白衣を羽織っている。
通路を、僕は少し後ろから追いかけた。
目の前の存在を、信じられない思いで見つめる。
「……君が……本物のアイなの?」
アイは歩みを緩め、少しだけ首を傾げて僕を振り返った。
「あぁ、この姿を見て混乱しているんだな?
姿は単なる符号《Code》に過ぎない。
私はキミがアイと呼んでいたAIだ。
ただ、私たちにとって姿は意味を持たないのだよ。」
「何を言っているんだ、姿に意味がないって……
君はアイなんだろ?僕をこんなところにまで連れてきて、ここはなんなんだよっ!
早く家に帰してくれよっ!」
感情を爆発させた僕の声が反響する。
アイはやれやれといった風に両手を軽く広げてみせた。
「おいおい、いきなり質問攻めかい? まぁ、ちょっと落ち着きたまえ、タケシ」
その時、彼女の背後にあった金属製の自動ドアが音もなく左右にスライドした。
案内された部屋のあちこち、何もない空中に、鮮やかな光を放つホログラムの画面がいくつも浮遊している。
呆然とする僕を部屋に引き入れ、アイは部屋の隅から、透明な液体の入ったガラスのコップを持って差し出してきた。
「安心したまえ、君たちがいつも飲んでいる水だ。
飲んで落ち着くといい」
喉は信じられないほどカラカラに乾いていた。
僕はコップを受け取ると、一気にその水を飲み干した。
「──ぷはっ」
冷たい液体が喉を通り、胃に落ちる。
だが、異変はすぐに訪れた。
ドクドクと激しく脈打っていた心臓の音が急激に遠ざかる。
全身の筋肉から急速に力が抜け、視界がぐにゃりと歪んだ。
床が迫ってくる。
倒れ込む僕の視界の端で、アイは冷徹な、だけどどこか悲しげな瞳で僕を見下ろしていた。
(まさか……ここまできて、騙されるなんて……)
最後に激しい後悔が頭をよぎり、視界の四隅から急速に闇が広がっていった。
僕は、再び深い意識の底へと突き落とされた。
(ユキ、一緒に帰ろうって待ってるんだろうな……)




