第2話 侵食する虚飾(Noise)
退院した僕は、再び元の日常へと戻っていた。
制服に身を包み、ガタゴトと揺れる丸の内線に揺られる。
自分の身に起きたあの事故が嘘だったかのように、世界は何事もなく回っているように見えた。
ただ、一つだけ、どうしても拭えない違和感があった。
「……またか」
僕は吊り革を掴む右手を見つめた。
手のひらから指先にかけて、時折、奇妙な痺れが走るのだ。
それは皮膚のすぐ下を微弱な電流が走っているような、パチパチとした、機械的な違和感だった。
数年前から感じるそれが何なのか、そのときの僕は知る由もなかった。
事故のせい?
神経の病気が何かなのか?
そんな思考をかき消すように、電車のドア付近に立つひとりの女子生徒に目が留まった。
いつも同じ電車、いつも同じ車両。
そこには、いつも同じ位置に立っている女の子がいた。
清楚な佇まいの彼女と、不意に、まっすぐ目が合った。
いつもなら気まずく目を逸らすところだけど、なぜかその時は違った。
彼女が、僕に向かって、小さく上品に会釈をくれたのだ。
(あ、どこの学校の生徒だろう。何年生なのかな……)
胸の奥が少しだけ熱くなる。
しかし、その時耳に挿したワイヤレスイヤホンに、ザザッ、と不快な砂嵐の音が混ざった。
「あれ? 最近、イヤホンの調子が悪いみたい、まだ買ったばかりなのに……」
◇
風呂上がり、部屋に戻ってベッドに座る。
ふと、スマホを手に取りアルバムを開く。
以前、ユキとハイキングに行った時、二人で撮った写真だ。
「かわいいなぁ」
◇
あれはよく晴れた休日だった。
ユキがお弁当を作ってくれると言うので、僕は前日の夕食を減らそうか本気で悩んだくらい舞い上がっていた。
当日もユキと景色を見ながら歩いていると、ユキが石に躓いて転びそうになったので、僕は反射的に腕を伸ばした。
その瞬間、柔らかな感触が腕に伝わってきて、僕の思考は真っ白になった。
「ユキ、ごめん……う、動けない」
「私もごめんなさい……その……もう大丈夫だから……」
僕は夢中で卵焼きを頬張った。
「そんなに喜んでくれるなら、頑張って作った甲斐があったな」
ユキはそう言って、少し照れたように笑った。
お弁当を食べてひと休みしたあと、山道を歩いた。
「ねぇ、ユキはさ、『運命』ってどう書くか知ってる?」
「うん、知ってるよ。今、山道を歩いているのも運命って言いたいの?」
「そうじゃなくてさ……
『運命』って命を運ぶって書くんだよ。気付いてた?
すごい言葉だよね。」
「フフ、なんだか急にロマンチストになったのね。
可笑しい……クスッ」
「そんなつもりじゃないんだけどなぁ…」
照れて顔を赤くしてタケシは下を向いてしまった。
◇
「っ、まただ……」
写真に触れた右手に電気が流れたような衝撃があった。
黙ったままジッと右手を見つめる……
◇
週末、僕はユキと、上野動物園に来ていた。
隣を歩くユキは少し照れくさそうに微笑んでいる。
満員電車でAIに恋愛相談をしていた僕が、今こうして彼女と二人でデートをしている。
だが、異変は前触れもなく訪れた。
猛獣舎のエリアに足を踏み入れた瞬間、それまで寝そべっていたライオンが唐突に跳び起き、鉄格子の向こうで激しく吠え立てたのだ。
それを合図にしたかのように、狼が遠吠えをあげ、猿たちが狂ったように壁を叩く。
園内の獣たちが一斉に異常な鳴き声を響かせ、周囲の観光客たちも騒然とし始めた。
「な、何……? なんか怖い……」
ユキが怯えたように僕の制服の袖を掴んだ。
「僕も、こんなの初めてだよ……」
尋常ではない騒ぎだった。
まるで動物たちが、僕という「異物」の接近を本能的に察知し、拒絶しているかのような──。
「……あれ? 僕、動物園に来たのって、初めてだっけ? 小さい時に来たはずなんだけど、その時は、えっと……」
思い出せない。具体的にイメージしようとすると、思考のピントがどうしても合わない。
結局、僕たちはデートを早めに切り上げ、逃げるように帰宅するしかなかった。
◇
なんだったんだろう、あの感じ。
「母さん、僕の子供の頃の写真ってどこにある?」
リビングへ降り、夕食の支度をしている母親に声をかけた。
「そのタブレットのアルバムにあると思うけど、どうしたの? 急に写真なんて……」
「昔、僕が小さい時に動物園に行ったことあるよね? その時おかしなことはなかった?
例えば、動物が騒がしいとか……」
僕の質問に、母親の背中が一瞬だけ、不自然にこわばった。
包丁がまな板を叩く音が止まる。
「変なこと聞くわね」
母親はゆっくりと振り返った。
その顔には、どこか作り物のような平坦さがあった。
「そんなことなかったわよ、一度も」
「……なら、いいんだけど」
部屋へ戻ると、どうしても気になった。
「ねえ、アイ。このタブレットの写真って本物なのかな?」
「写真が加工されたものなら調べれば判別可能です」
タブレットの写真を何枚か入れてみるが、
「加工された形跡はありません」
とアイは答えた。
「ありがとう、本物で良かったよ」
タケシはそう信じるしかなかった。
部屋に戻り、タブレットの写真を指先で拡大した瞬間、僕の右手に、あのパチパチとした強い痺れが走った。
まるで、画面の向こうのデジタルデータと、僕の身体が直接ノイズを共有したかのように。
◇
「ねぇ、どうしたの?大丈夫?まだ頭が痛いの?」
心配そうにこちらを覗き込むユキの顔がそこにあった。
「あぁ、大丈夫。
ごめんね、ちょっとボーッとしてた」
「もぅ、せっかく二人で帰れるっていうのにひどいなぁ」
すっかり拗ねてしまったユキに取り繕うと慌てて
「あ、そこの角のお肉屋さんのコロッケがおいしいんだ。
ごちそうするから機嫌直して、ねっ、お願い!」
「なんか、分かりやすいご機嫌とりだなぁ……
でも、それで許してあげる、フフ」
「ホントだ、おいしいっ!」
目をキラキラさせて喜ぶユキを見て安心して胸を撫で下ろす。
「ユキと久しぶりに二人で帰れて、僕も嬉しいよ」
微笑み合いゆっくりと二人は家路についた。
◇
ユキは帰宅する。部屋には誰もいない。
ふとスマホの写真を見る。
自分とタケシのハイキング写真。
胸の奥に小さなノイズのようなものが走る。
なぜだろう。
嬉しい。
切ない。
会いたい。
どれとも少し違う。
その感覚の名前を、
ユキはまだ知らなかった。
ふと窓の外へ目を向ける。
夜空には、大きな月が浮かんでいた。
◇
昼休み。教室の席で机に突っ伏し、イヤホンから流れる音楽を聴きながら、ウトウトと軽い眠りに落ちていた。
──ザザ、ザザザッ……。
また不快なノイズだ。
意識が覚醒しかけたその時、音楽が完全に途切れ、耳の奥に「声」が飛び込んできた。
それは、スマホのスピーカーから流れる合成音声ではなかった。
息が詰まるような、ひどく必死で、生々しい、本物の人間の少女のような掠れた声。
(……げて……っ、早く……逃げて……!)
(彼らが近くまで来ているの、早く逃げて……!)




