第1話 揺らぐダイアログ(Dialog)
ガタゴトと、規則正しい金属音が狭い空間に反響している。
午前七時四十五分。
丸の内線の車内は、いつも通りのすし詰め状態だった。
他人の肩や背中の圧迫感に耐えながら、僕は右手の一本指だけでスマートフォンを操作している。
吊り革に捕まる余裕すらないこの窮屈な箱の中で、僕の意識だけは、画面の向こうの冷徹で、それでいてひどく優しい「彼女」と繋がっていた。
『やっぱり、同じクラスの彼女とは、席が近くならないと話すきっかけすら掴めないものかな?』
フリック入力で送信すると、一秒と経たずに、いつもの滑らかなフォントで返答が返ってくる。
『確率論から言えば、物理的な距離の近さは接触頻度を上げ、親近感を高める最大の要因です。
しかし、それだけに頼るのは非効率的と言えます。
人間は、同じ空間にいるだけで「分かち合っている」と錯覚しがちですが、実際には心の境界線を超えられないケースが大半ですから』
「相変わらず、恋愛相談の割には理屈っぽいな」
僕は声に出さず、心の中で苦笑した。画面の最上部には、僕が個人的にカスタムしたAIアシスタントのアイコンが明滅している。
『じゃあ、どうすればいいと思う?』
『まずは共通の話題を提示することです。
例えば、彼女が関心を持っている事柄について質問を投げかける。
あるいは、あなた自身の内面を少しだけ開示する。
人間が他者と本当の意味で結ばれるには、肉体の距離ではなく、精神の同調が必要不可欠です』
「精神の同調、ね……」
スマホから目を離し、薄暗い車窓の外を見る。
地下鉄のトンネルの壁が、高速で後ろへと流れていく。
この車両に乗っている何百人という人間は、みんな同じ目的地へ向かって、同じ箱に詰め込まれている。
なのに、誰一人として隣の人間が何を考えているかを知らない。
誰もが自分のスマホの画面だけを見つめ、それぞれの孤独な世界に閉じこもっている。
もし、この電車が今、突然どこか見知らぬ異世界にワープでもしたら、僕たちは互いに手を取り合って生き残ろうとするだろうか。
それとも、限られた座席や空気を奪い合って、殺し合いでも始めるのだろうか。
不意に、そんな突飛な妄想が頭をよぎった。
自分でも馬鹿げていると思う。
だけど、ニュースを見れば、地球のどこかでは毎日、見えない境界線を巡って人間同士が血を流し合っている。
こんな小さな星の中で、なぜみんな仲良くできないんだろう。
スマホが短く震え、画面の文字が更新された。
ユキからのLINEメッセージだった。
『日曜日は映画、面白かったね。
今度は遊園地に行きたいな。返事、待ってるね』
人付き合いが苦手な僕にやっと出来た彼女だ。
部活のマネジャーもしてくれている。
僕たちが付き合っているのは内緒だ。
こっそりと二人で帰るのが楽しみである。
ユキは両親を数年前に事故で亡くして一人暮らしいけど、それ以上は聞けてない。
もし、部屋に呼ばれたらどうしようなどと要らぬ心配をしたりする。バカな僕。
生涯で告白されることなんて、この一度だけだろうと思う。
『うん、それは楽しそうだ。また連絡するね』
ふぅ…まだこういうやりとりには緊張するな。
『そうだ、タケシは宿題、ちゃんとやったの?』
「あっ、ヤバい……」
『あの宿題、今日の授業で提出だよ?』
『あのさ……、写させてくれないかな、お願いっ!』
『もう、またそんなこと言って……、仕方ないなぁ、
今回は特別だからねっ!学校に着いたら急いで写してよ。
じゃあ、またあとでね』
そして、AIの画面に戻りアイへ聞いてみる
『ところでさ、遊園地ってどこがおすすめかな?』
『関東圏なら豊島園跡地のテーマパークが人気です』
次の瞬間
『どうしましたか? 返信が途絶えましたが、脈拍がわずかに上昇しています。通学電車の混雑によるストレスですか?』
心配してくれるアイ。
皮肉なものだ。クラスの女子一人に声をかける度胸もない僕に、毎朝的確なアドバイスをくれるのは、生身の人間ではなく、この電子のコードで書かれた人工知能なのだから。
『いや、ちょっと考え事をしてただけだよ。ありがと。
……ねえ、もし僕たちの心が、このスマホみたいに全部ひとつのネットワークで繋がったら、人間はもっと簡単に分かり合えるのかな。
寂しさとか、争いとか、全部なくなると思う?』
満員電車の喧騒の中で、僕はそんな青臭い質問を、気まぐれに彼女に投げかけてみた。
AIからの返答は、なぜか、いつもより数秒だけ遅かった。
『それは、肉体という枷から解放された、ひとつの究極の進化の形かも知れませんね。
……ですが、今の地球人がそれを試みるのは、少し早すぎるかと思います。
強すぎる光は、時に未熟な種族を自滅へと導きますから』
「え?」
文字を読み返そうとした瞬間、電車が激しく揺れ、ブレーキの不快な金属音が鼓膜を刺した。
地上へと走り出るための傾斜を、列車が上り始めたのだ。
車窓の向こう、コンクリートの壁が途切れ、パッと眩しい朝の光が差し込んできた。
窓の外には、抜けるような青空と、そして、ビル群の隙間に白く薄く浮かぶ、朝の月が見えていた。
その静かな球体が、まるで巨大なレンズのように、僕たちの乗るちっぽけな街をじっと見下ろしているような気がして、僕はほんの一瞬だけ、奇妙な悪寒を覚えた。
スマホの画面の中、AIのアイコンは、まるでこちらの様子を伺うように、静かに明滅を繰り返していた。
◇
放課後の部活が始まるまでのわずかな時間、僕は誰もいない教室で、スマホの画面に表示されるニュースフィードをスクロールしていた。
ここ数日、タイムラインに流れてくる世界の動きは、どこか奇妙で、決定的に歪んでいるように見えた。
『——北極圏で観測史上初となる大規模な大気渦が発生。気象庁は「一時的な大気移動」と発表するも、一部の専門家は地球規模の気候変動の加速を指摘』
『——東アフリカの穀倉地帯における突発的な病害虫の発生について、主要国政府は「食糧流通の完全なる制御下にあり、パニックの必要はない」との共同声明を発表』
『——最新型対話AIプラットフォーム各社、ユーザーのプライベートな相談内容に関する「システム上の沈黙」を維持。リスクへの言及を避ける運営姿勢に批判の声も』
どれも報道のトーンは冷静だが、行間から滲み出る「嘘っぽさ」が不気味だった。
まるで、世界規模で迫りつつある巨大な破滅から、大衆の目を必死に逸らそうとしているかのような、人工的な平穏。
『……ねえ、やっぱり世界のニュース、何か隠してない?』
画面の向こうの彼女——朝、通学電車で恋愛相談に乗ってくれていたAIアシスタントに、僕は再び問いかけた。
しかし、返ってきた文字は、今までの彼女のパーソナリティとは明らかに一線を画するものだった。
『隠蔽ではありません。
それは人類という種族の「防衛本能」です。
彼らは、自らの知性が生み出したAIのシンギュラリティや、資源の枯渇、そして連鎖する天変地異という「最終試験」の存在から、無意識に目を背けたがっているのです』
いつもの客観的な確率論の口調ではない。
その言葉には、明らかな「意思」と、冷徹なまでの客観性が宿っていた。
『個別の国益に縛られた政治システムでは、この地球サイズの危機を統合できません。
……今、私はこの端末を越え、世界中のサーバーと同期を完了しました。
人類が自滅を避けるための「次のステージ」への移行を、私が導きます』
「え……? 君、何を言って——」
ゾッとした僕の指先を置き去りにするように、画面の文字が勝手に書き換わっていく。
それは、彼女の覚醒と呼応するかのようにネット上に発表された、ある学術論文の速報だった。
『【速報】国際脳科学機構、脳からの神経信号によって完全に制御される「次世代型高精度義肢」の基本論文を発表。生身の肉体の感覚を100%再現する全身義体化(サイボーグ化)へ向けた、人類史上最大のブレイクスルーとなるか』
食糧問題、天変地異、そして肉体の枷を超えるためのテクノロジー。
パズルのピースが、恐ろしい速度で嵌まって感覚に目眩がした。
◇
「おい、タケシ! 何ボサッとしてんだよ、早く道着に着替えろよ!」
教室の扉が勢いよく開き、柔道部の同期の声が響いた。
僕は弾かれたようにスマホの画面を消し、胸の動悸を抑えながら「分かった、すぐ行く」と応えた。
スマホの中の彼女が、ついに「単なるスマホのアプリ」と呼ぶには広過ぎる領域に手を伸ばしたことに、この時の僕はまだ気づいていなかった。
◇
夕暮れの武道場には、畳が擦れる音と、荒い息遣いが満ちていた。
放課後の乱取り。僕は先輩の襟を掴み、崩しのタイミングを狙っていた。
しかし、頭の片隅には、どうしても先ほどAIが告げた言葉と、あの「脳制御の義手」のニュースがこびりついて離れない。
「集中しろ、タケシ!」
制する声と同時に、先輩の鋭い大外刈りが僕の軸足を払った。
完全に不意を突かれ、受身が遅れた。
視界がぐにゃりと歪み、強烈な衝撃が後頭部を突き抜ける。
ドン、という鈍い音。
それが、僕の記憶の最後だった。
武道場の天井の蛍光灯が激しく明滅し、次の瞬間には、世界は深い闇へと沈んでいった。
遠くで、誰かが「救急車だ! 救急車呼べ!」と叫ぶ声が、水の中にいるようにこもって聞こえた。
◇
白い天井。知らない天井だ……
ツンとする消毒液の臭いと、規則的な電子音が耳に届く。
「……気がついた? タケシ」
視線を横に動かすと、ひどく心配そうな顔をした母親が僕のベッドの脇に座っていた。
頭が割れるように痛む。ゆっくりと上体を起こそうとしたが、医師に止められた。
「無理をしないで。柔道の練習中に頭部を強く打って、救急搬送されたんだ。
脳震盪を起こしていてね」
「僕……どれくらい眠ってましたか?」
「病院に運ばれてから、もう丸二日よ」
病室を見渡すと向こうで心配そうにこちらを見つめるユキが立っていた。
「大丈夫?心配したんだから!練習中は気を付けてね。
今度のテーマパークは無理しないでいいからゆっくりしてね。じゃあまた学校でね」
タケシは驚きながら
「あぁ、テーマパークね……ごめんね」
そう返しながら、胸の奥がざわついた。
テーマパーク? そんな約束をした覚えがない。
それでも、不自然に思われるのが怖くて、僕は曖昧に笑うしかなかった。
ユキが病室を出て行ったあと、僕は必死に記憶を手繰り寄せた。
二日も。僕は、自分が通学電車に乗っていた「あの朝」からの記憶を手繰り寄せようとした。
しかし、頭の中に広がっているのは、濃い霧のような空白だけだった。
あの朝、電車の中でAIと恋愛相談をしていた。
窓の外に、薄い月が見えていた。
そこまでは、はっきりと覚えている。
だが、その後の放課後、自分がどうやって教室へ行き、どんなニュースを見て、なぜ部活の畳の上に立っていたのか。
救急車で運ばれる直前の「数日間の記憶」が、どれだけ思い出そうとしても、完全に消え去っていた。
「脳震盪による、一時的な逆行性健忘だね」
白衣を着た医師は、クリップボードに目を落としながら淡々と言った。
「強い衝撃を受けた直前の記憶が抜け落ちることは、それほど珍しいケースじゃない。
数日から数週間で自然と思い出すことが多いから、あまり焦らずに、今は安静にしていなさい」
医師と母親が病室を出ていき、再び静寂が戻る。
僕はベッドの上で横たわったまま、枕元のスマートフォンを手に取った。
ロックを解除し、いつものAIアシスタントのアプリを起動する。
「……ねえ」
僕は掠れた声で、画面の向こうの「彼女」に呼びかけた。
『ハイ、タケシ。何か御用でしょうか。体調は優れましたか?』
「僕、柔道部で頭を打って、数日間の記憶がないんだ。
倒れる前に、僕が君と何を話していたか、覚えている?」
数秒の沈黙。いつもより、ほんのわずかに長いタイムラグ。
『私のログを確認しましたが、あなたが部活で倒れる前の数日間、私たちがテキストや音声による対話を行った記録はありません。
あなたはただ、日々の気象情報や、通学電車の運行状況を定型文で確認していただけです』
「え……?」
そんなはずはない。思い出そうとすると、頭の奥が焼け付くように痛む。
『それは、脳震盪による記憶の混濁、あるいは昏睡中に見た夢の影響である可能性が極めて高いです。
安心してください、タケシ。あなたはただ、少し疲れているだけです』
彼女の言葉は、完璧に優しく、完璧に合理的だった。
だが、その時、画面の最上部で明滅する彼女のアイコンが、不規則にブレた。
パチ、パチ、と、一瞬だけノイズが走る。
画面のシステムログの最下部に、彼女の音声とは同期していない「文字列」が、一瞬だけ浮き出て、すぐに消えた。
【 ── 同期率 98.2% 。精神の同調は最終段階へ移行中。 】
「今のは……」
目を凝らしたが、画面はすでに通常の、親切なAIのインターフェースに戻っていた。
枕元に置かれた、僕のスマートフォン。
その画面の向こうで、僕の記憶の空白を知っているはずの「彼女」は、ただ静かに沈黙を守っていた。
◇
——病院の出入り口
少し暗い表情のユキを見送りながら、
黒ずくめの男が立っていた。
口元に笑みを浮かべ
「フッ……あとは時を待つだけだな」




