4.
結婚式前夜、私は母に呼び出された。
向かった先は屋敷の奥にある小さな応接室だった。
扉の前に立つと、母がどこか困ったように微笑む。
「少しだけお兄様と話してきなさい」
思わず身体が強張った。
「お母様……」
「何があったのかは聞かないわ」
母は優しく言った。
「でも、最近のあなたたちを見ていると心配なの」
その言葉に何も返せなかった。
心配をかけている自覚はあった。
父も母も、理由の分からない兄妹の不和に戸惑っている。当然だ、でも、説明なんてできるはずがない。
私自身、未だに現実感がないのだから。
「明日にはあなたは嫁いでしまうでしょう?」
母は私の頬を撫でた。
「だからせめて、最後に話してきなさい」
そう言って背中を押される。
逃げることはできなかった。
私は小さく息を吐き、扉を開けた。
———
部屋の中には兄がいた。
窓際に立ち、夜の庭を見ている。
私が入ってきたことに気付くと、ゆっくり振り返った。
その瞬間、私は理解した。
兄も思い出している。
何故かは分からない、けれど分かった。
あの日、私が兄を見て確信したように、兄の表情を見ただけで分かった。
兄も知っている。
全部。
「…お兄様も」
先に口を開いたのは私だった。
「…思い…出したのですね」
兄は否定しなかった。
長い沈黙の後。
「……ああ」
ただそれだけを捻り出すように答えた。
それで十分だった。
———
しばらく一言も喋らなかった。
と言うか言葉が見つからない。見つけたところで、何をどう言えばいいのかも分からない。
やがて兄が口を開いた。
「私は謝罪をしに来たわけではない…」
私は顔を上げた。
少し意外だった。
兄ならまず謝ると思っていたからだ。
「謝罪をしたところで、何も変わらない」
静かな声だった。
言い訳も弁解も、一つもなかった。
「思い出した時、その瞬間最初に考えたのはお前のことではなかった」
兄は苦笑した。
「エドワード殿のことだった」
「……」
「気に入らなかった」
私は息を呑む。
兄は続けた。
「理由もなく腹が立った」
「お前の隣に立っているのが」
「お前が笑っているのが」
「どうしようもなく気に入らなかった」
自嘲するように笑う。
「そこで思い出した」
私は何も言えなかった。
兄の言葉が痛いほど理解できたからだ。
「そして気付いた」
兄はゆっくり目を閉じた。
「私は何も変わっていない」
「……」
「いや」
小さく首を振る。
「違うな」
「変わったつもりになっていただけだ」
その声はひどく疲れていた。
「私は今世、お前を守りたいと思っていた」
「傷つける者がいれば許せないと思っていた」
「幸せになってほしいと思っていた」
そこで言葉が止まる。
「だが」
兄は笑った。
それは今まで見たことがないほど苦い笑みだった。
「一番お前を傷つけた男は私だった」
「私は…私を許すことができない」
———
私は黙っていた。
いや、何も言えなかった。
———
「……申し訳ありません」
気付けばそう言っていた。
兄が顔を上げる。
「私は」
言葉を探す。
違う、探さなくても分かっている。
「私は、お兄様を許すことができません」
兄は黙って聞いていた。
責めることも。
悲しむこともなく。
ただ静かに。
「怖かったんです」
声が震えた。
「今でも怖い」
「お兄様は優しいのに」
「何もしていないのに」
「それでも怖いんです」
兄は目を伏せた。
そして
「そうか」
と呟いた。
その声はどこか安堵しているようにも聞こえた。
「……よかった」
思わず顔を上げる。
「え?」
兄は少しだけ笑った。
「いや」
静かに首を振る。
「そうでなくてはならない」
「……」
「リディア」
兄は真っ直ぐ私を見た。
「どうか私を許さないでほしい」
私は言葉を失った。
「いや」
兄は首を振る。
「違うな」
そして静かに言った。
「けして許してはいけない」
部屋が静まり返る。
「私は今世のお前を大切に思っている」
「それは本当だ」
「だが」
兄は目を閉じた。
「だからといって前世の私がしたことが消えるわけではない」
「……」
「私のした事は許されるべきではない」
私は絶句した。
許してほしいのだと思っていた。
後悔して泣いて縋るのだと思っていた。
違った。
兄は…兄自身が前世の自分を断罪していた。
「だから」
兄は静かに笑った。
「お前は何も間違っていない」
私は何も言えなかった。
———
長い沈黙の後、私はようやく口を開いた。
「…あの人とお兄様は違います。」
「…それでも」
兄が顔を上げる。
「それでもやはり、…許せません」
「ああ」
「きっと一生」
「ああ」
兄は静かに頷いた。
「それでいい」
私は兄を見つめた。
そして、あの日から初めてほんの少しだけ肩の力を抜いた。
許したわけではない。
許すつもりもない。
けれど、少なくとも兄は理解していた。
何が間違っていたのかを。
何故私が怖がったのかを。
それだけは伝わった。
それだけで、今は十分だった。
明日になれば私は嫁ぐ。
お兄様もまた、自分の人生を生きていくのだろう。
私はお兄様を許さない。
きっとこれからも。
それでも。
あの日から初めて、私はお兄様の顔を見て話すことができた。
それだけは、確かな事実だった。




