表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

1.

婚約が決まった日、兄は少しだけ寂しそうだった。


「おめでとうございます、お兄様」


そう言うと、兄アルフレッドは少し困ったように笑って言った。


「リディア、それは私の台詞だろう」


「でも、お兄様も嬉しいでしょ」


「それは嬉しいさ」


「だってリディアが幸せそうなのだからな」


私は思わず笑った。昔から兄はそういう人。

私が笑えば喜び、泣かされたら烈火の如く怒る。

庭で転んだだけで大騒ぎになり、風邪を引けば医者が三人呼ばれた。


十歳の頃、木から落ちて腕を擦りむいた時など、怪我をした私より兄の方が青い顔をしていたくらいだった。


「だがエドワード殿なら安心だ」


兄は紅茶を口に運びながら言った。


「エド様…とても誠実なお方ですもの」


「ああ」


窓の外を眺める横顔は穏やかだった。


「彼なら君を傷つける事はないだろう」


その言葉に私は小さく笑う。


「もし傷つけたら?」


「誰であろうと許さない」


あまりにも迷いのない即答に、思わず吹き出す。


「お兄様ったら…」


「私は本気だ」


「分かっています」


本気なのが分かるから困るのだ。

思い返せば兄は昔からそうだった。

理不尽を嫌い、弱い者いじめを嫌う。

特に女性に対する暴力や執着を激しく嫌悪していた。


以前、学園で男子生徒が女子生徒につきまとっているという話を聞いた時も、


『嫌だと言われている時点で終わりだ』


と本気で怒っていた。


『相手を怖がらせた時点で愛情ではなくそれは自己満足だ』


そう言い切った兄の顔を覚えている。

だから私は信じていた。


兄は優しくて正しい人。

私を傷つけることなど決してない人。

それが当たり前だった。


とても大好きで自慢の兄だった。


あの日までは。

 

———


婚約発表から数日後、私は階段から落ちてしまった。

正確には足を滑らせた。


ぐらりと視界が傾いて身体が浮く。

まずい、と思った時にはもう遅かった。


「リディア!」


兄の声がしたと同時に駆け寄る足音。

伸ばされる手に腕を掴まれる感覚。


そして、二人揃って階段を転げ落ちてしまったところで意識が途切れた。


———


次に目を覚ました時、自室の天井が目に入った。


ぶつけたとはいえ酷く頭が痛い。

異常なほど痛く、例えるなら頭の奥を誰かに掻き回されているような痛みだった。


ふと横を見ると心配そうな父と母。

後ろでは侍女たちが泣いている。

皆が何かを言っているが痛む頭の中に、さらに映像が流れ込んできて何も聞こえなかった。


知らない街に知らない部屋…知らない人生。

けれどそれは知らないものではなく、紛れもなく私の人生、私の前世の記憶だった。


会社。

通勤電車。

スマートフォン。

コンビニ。

残業。

疲労。



そして、恐怖。



心臓がドクンと強く脈打った。

呼吸が浅くなり息がうまく吸えなくなる。


ポストに入っていた気味の悪い手紙。

玄関先に置かれた花束。背後の気配。

郵便物やゴミは持ち去られ行動も把握されていた。


そして、

帰宅途中の駅で待ち伏せをし、自宅前をいつもうろついていたあの男…恐怖の中心にいた男の存在を思い出した瞬間


——部屋の扉が開いた。


「リディア」


それは優しい声だった。

聞き慣れた声。

安心するはずの声。


そこに立っていたのは兄だった。


額に包帯を巻いている…私を庇ったせいで怪我をしたようだ。私を見ると兄は安堵したように笑った。


「目が覚めたのか」


それはいつも通りの優しい笑顔だった。

私が大好きだった笑顔。


——顔は違う。全然違う。


前世のあの男とは似ても似つかない。

だって兄は金髪で、整った顔立ちで、誰もが振り返るような美青年だ。


思い出した前世の男は違っていた。

髪の色も、顔も、喋り方も似ているところなど一つもない。


——それなのにサッと血の気が引いていく。


お腹から冷たいものが上がってきて全身が凍りつくようだ。


——違う。

——違うのに同じ。


どうして分かるのか説明できない。

目元や顔立ちが似ているわけではない。

声が似ているわけでもない。

仕草が同じわけでもない。


それでも分かってしまった。


兄は…

 

「リディア?」


兄が心配そうに近づいてきて、私は無意識に身体を引いてしまった。


ほんの僅か。

自分でも気付かないほどの距離だったけれど兄は気付いたらしい。


動きが止まった。


「…まだ、具合が悪いのか?」


優しい声。

心配そうな顔。

それなのに。

それなのに。


脳内は警報が鳴り響くようだった。


そして脳裏に別の声が響いた。


『偶然だね』

 

『また会ったね』


偶然なはずがない。


『そんなに警戒しなくても』


男は笑っていた。


私は怖かった。

怖かったのに、相談したとき周囲は言った。


「考えすぎ」

「気のせいよ」


でも違った。


私は、私の不安は間違っていなかった。

あの男は本当に私を見て、付きまとい、私の日常をじわじわと壊していった。



兄を見るとあの時と同じ感覚が蘇ってくる。

違う人間、違う人生、違う顔…

それなのに、どうしようもなく同じだった。


「リディア」


兄がもう一度名前を呼ぶ。

私は体が震えるだけで何も答えられなかった。

震える指先を握り締め必死で息をした。


兄は困ったように笑った。


「そんな顔をするな」


「大丈夫だ」


「お前は助かった」


安心させるように。

いつも通りに。

優しく…。


私は思った。

前世のあの男も、最初はこんな風に笑っていたのだろうか——


その瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われた。吐き気にも似た嫌悪感だった。


兄は何も知らない。

何も思い出していない。

ただ私を心配しているだけだ。


それはわかる。

分かるのに本能的な嫌悪感が兄の存在を拒む。


私は兄が怖かった。

それは、前世のあの男を思い出したからだけではなく、心の底から兄を愛し、慕っていたからだ。


信じていた。

信じきっていたからこそ、怖くて仕方がなかった。


そうして私は、深く深く沈んでいくように再び意識を手放していった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ