第六話(3)
竹内は抗議しつつもちゃっかり小倉さんに肩をひっつけて、なんだかんだと小倉さんも嬉しそうだ。うん、初々しくてよい。
「わ、私たち、まだ付き合っているわけじゃ……」
実に分かりやすい。知り合い二人が幸せな雰囲気なのは、なんだかこっちも嬉しくなる。
「あなたと真白は……」
千夏は、思っていることを言葉にまとめられずに、苛立つようだった。竹内と小倉さんの平和な雰囲気が救いだ。
「俺と真白は違うよ。ゆっくり二人でちょっとずつ距離を縮めようとしてたんだよ」
「ときめきもへったくれもないでしょうよ。こんな話、真白の前では可哀想すぎて出来ないわ」
千夏は頭を掻いた。
「真白なりに、一生懸命あなたを振り向かせようとしていたのが、いじましくて、せつなくなる……」
ああ、この子は真白と、本当に親友なんだ。瞳に涙をにじませて、真白の為に怒っている。きっとこれまで、ずっと堪えてくれていたのだ。不甲斐ない俺に対する文句を。
篠原千夏は大きく息を吐いた。自分を落ち着かせようとしているようだった。
「ごめん、なんか少し言いすぎてるの、わかってる。突然やってきた部外者が横から口出すことじゃないってことも、わかってるんだけど口にし始めたら止まらなくなって……あなたって、私が思うにどこか自分事じゃないのよ」
自分事じゃない? 俺は俺なりに真白のことを考えてたつもりだ。
……でも、最近俺は自分に自信がない。いろいろと俺の中の常識を壊される日々だ。
篠原千夏の言いたいのは、好きになった人にときめくとか……つまり心を動かされる相手……真白に朝言われたばかりだ。俺にとって真白が、本当にそうだったのか、と問いたいのだろうか。みんな、俺のそこが変だって言っているのか?
俺がそうなる相手って……どきどきしたり、気になったりする相手って……。
電気のついてない暗い化学室の窓。そこから取り込まれる曇り空の薄明かりだけが俺たちを照らす光だった。
「たぶん、真白は、まだあなたのこと好きよ」
篠原千夏は、ぽつりと言った。
「私のせいなの」
呟くように続ける。
「私が、あなたのことを、真白に教えたせい」
千夏は、俺から逸らしていた瞳を、再びこちらに向けた。
「小学校の頃のあなたって、兄妹を馬鹿にされてケンカばかりしていたでしょう」
ケンカばかりというのは印象の違いだけど、なんでそのことを知っているんだろう、と彼女の顔を見つめた。何か記憶に引っかかる。小学六年生の、たった一年の記憶。
「篠原……ちなつ?」
「思い出した?」
そう、思い出した。同じ小学校で、クール気取りの女子。それが篠原千夏だ。小学校の六年生で俺が転校してきて、その一年間、ほとんど喋っていないのではないか。少なくとも会話した記憶はまったくなかった。
「そう。私の方は覚えてる。転校生なんて珍しいから。それで転校生のことを真白に話した。そいつがケンカばかりしていて、中学に入ってからもそれは続いて、けどそれは兄妹の為に怒ってたんだ、って。私は真白とずっと交流があって、習い事に行くたび、あなたのことを世間話のネタにお喋りしてたわ」
真白は、俺のことを知っていたのか。
「あなたのことを、ね。たぶん憧れていたの。真白は」
それは飛躍が過ぎる。さっきの話のどこにかっこいいところがあったというのだ。
「真白は、変わった子よ。スポーツができるとか、頭がいいとか、見た目が格好いいとか、あまり興味ないの。恋愛自体、興味がないと思っていたわ。でも、あなたのことを聞くときの真白は違った。ちょっとずつ、あなたへの気持ちの土台を、あの子も気づかないうちに育てていたのかも」
千夏は少しほほ笑んでいた。その頃の真白を思い出しているのかも。
そのとき化学室の扉をノックする音が響いた。
みんな返事はしなかった。一瞬だけ空気が張り詰めたあと、俺たちの存在に確信を持ったように扉が開く。
「みんな、授業中よ。こんなところで密談なんて、先生方に見つかったら言い訳できないわ」
落ち着いた静かな声が、俺たちを優しく咎めた。
そこにいたのは、真白だった。
千夏が唇を結ぶ。何かを堪えるように彼女は真白を見た。真白が彼女に優しく頷いた。俺も見たことのないような、優しい表情だ。
篠原千夏は何も言わずに反対側の扉から教室を出て行った。
竹内と美帆は顔を見合わせて、二人も千夏のあとを追うように出て行った。
みんなが去って、音が落ちる。静けさが化学室に残された。
「ごめんなさい。千夏の言ったことはあまり気にしないで」
真白は何について謝ったのか。
はやく言葉をかけなければ、真白は次の瞬間にも踵を返しそうだった。
「真白は、すごいな」
だから、思ったことをただ素直に伝える。
「たぶん真白って、友達付き合いとか、苦手だよな。まじめで、優しくて、勉強もできて、何でもできるのに」
「認めるわ。苦手な事柄については」
「でも、ちゃんとがんばってる。そうやって苦手と認めて、理々香とか小倉さんとかと、仲良くなった。それどころか、篠原みたいな親友もいて、しかもすごいいい友達みたいだ」
「すごくなんか……周りの人にひっぱられただけ」
「いや、すごいよ。彼氏とか彼女とかだけじゃなく、人との付き合い方って、分からないやつにはとことん分からないものだろう?」
俺の少ない引き出しでは、その事例というのは結局自分のことでしかないのだけど。
俺は思ったことを、すべて口にした。こっぱずかしい告白だ。
中学の頃、周囲に威嚇する猫みたいに、ケンカして突き飛ばして、蹴っ飛ばして、跳ねのけて、その結果、うまくやれているようで、俺の世界はすごく狭くなったんだ。
莉緒と梨子、家族を守るといきがって、親父を真似して大人ぶって。
竹内や小倉さん、近くにいる同級生とも何となくうまくやっているふうに装っていた。
壁を作ってたんだな。
「そんなふうに思えるよ。いまは……いや、今ようやく思えた。だから、それを乗り越えた真白はすごい」
「春詩くんだって。気づいたじゃない。周りにいる人たちを大事にしていけば、きっと今までと変わる」
どうかな。自信もなく肩をすくめる。
「真白、聞いてほしい」
ただ、言わなければ。
「そんな狭い世界で、俺が大切にしてきたものがあるんだ。言い訳かもしれないけど、そのために、俺は普通を全部放り投げたんだ。そうすべき大切なものだったから」
真白は俺をまっすぐに見た。受け止める覚悟を見せるように。
「だから、真白と付き合うのは、今思えば、間違ってた……ごめん」
一度俯いた真白は、もう一度俺を見つめた。
「うん。知ってる……知ってた。羨ましかったわ。あなたたち兄妹の在り方が」
俺は少し不思議だった。真白にもいい兄貴がいるだろうに。
「私と春詩くんの始め方は、あの頃はそれが私たちに合ってるって思ってた。そうでもしないと、あなたは私のことを知ろうともしないから。あなたたちがうらやましくて、焦ってしまったのかも」
「ああ言ってくれたお陰で、真白と仲良くなれたと思う。ありがとう。真白は、俺の友人の中で俺を成長させてくれた、かけがえのない一人だよ」
お兄さんの庇護があって、お兄さんの恋人という理解者がいて、一人の親友がいて。俺のように閉じこもっているようでいて、本当はそこから少しずつだけど、これまで一歩ずつ変わってきた真白。
いろんなものを拒絶して、家族の殻に閉じこもったままの俺。
きっと、これから変わっていけるだろう。真白の存在が、それを信じさせてくれる。
「春詩くん。知ってますか?」
真白は、知り合った頃の少し丁寧な口調になって言った。
「春詩くんの周りの女の子で、春詩くんを春詩くんて呼べる、対等な女の子は、私しかいないんです。特等席です」
真白は微笑んだ。
「……ずっと、そこに居たかったなぁ」
ほんの少しの時間だったが、その懐かしいわずかな過去を思い出すように真白は言った。そして、何かが堰切ってしまうまえに、彼女は顔を隠すように横を向いたのだった。
ごめん。心の中で呟く。
だれか、真白のそばに居てやってほしい。真白を幸せにできるだれかが、現れますように。
俺は化学室を後にした。




