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第五話(9)

 柚羽が待ってましたと背中を押す。

 リオくんはすっかり涙が乾いて、もじもじしていた。

「に、兄さんはね。僕たち兄妹にとって、すごい人なんだよ」

 そこから語り始めたのは、リオくんの記憶にある先輩の幼い姿と、小さいのに頼もしい背中。

 意外というか、しっくりくるというか。あの事件だけじゃなかったんだ。

 それから、彼女の記憶は最近のものに移り変わる。先輩が痛めた右手の話。

 そして、あの事件の話。

「あの時のことは、つらくて苦しいけど、いまでは兄さんが助けてくれたことが、胸の中でとっても暖かくて」

 リオくんの中で、悪い記憶が何か暖かくてやわらかいものに包まれて、心の痛みにならないようにしてくれているのが語り口からわかった。

「ひどいことをされて、宿舎から逃げ出した僕を、兄さんが見つけてくれて……」

「ひゅー、先輩ヒーローみたい」

 柚羽の合いの手に突っ込みを入れようと思ったがやめた。ほんとうにそう思う。

「それから手を引いて家に連れて帰ってくれて……」

「うん」

「でも、そのときはまだ気持ちが塞ぎ込んでて、誰とも会いたくなくて、家の離れに閉じこもったんだ」

 さすがにその時のことを思い出すのは、悲しい顔も入り混じる。

「兄さんが、何度もなんども、顔を見に来てくれたの」

 思い出すような顔のリオくんは、つらい過去の中に、優しさのぬくもりを感じるようなかすかな微笑みを浮かべていた。

「ふうん、それで先輩がリオくんを離れから連れ出してくれたってわけね」

 ちょっと納得がいった。

 そこへ思いついたように柚羽が疑問をあげる。

「そういやさ、リオくんはそのときって、まだ女の子的な気持ちって自覚がなかったわけじゃない?」

 柚羽は疑問点を掘り起こすのが上手だ。

「ああ、なるほど」

 私は柚羽の疑問の要点を察した。

「リオくんが、お兄さんを特別に思うようになったきっかけってなに?」

 そう言ってリオくんの顔を見ると、おや。おやおや?

 何かを思い出している、しかもつらい出来事のあった時期ながら、つらいことではない何かを。

「は、はる……はる、春詩、兄さんが……」

 リオくんは、硬直した。いまだかつてないくらい、頬を染めて。

 羞恥心に堪えられなくなって、リオくんは顔を両手で隠した。

「ちょっとう、それ、聞かせなさいよう」

 柚羽はリオくんの背中に乗っかるようにして、耳元でささやいた。

 弱点を見つけたと見るや、容赦がない。

「キス……」

 耳元でくすぐったそうなリオくんが、小さく漏らす。

「「ん?」」

 柚羽と私は、短く疑問をかぶせた。

「してくれたの」

「「んん?」」

「おまえは綺麗だから、絶対に味方がたくさんできるから、大丈夫だから、安心しろって、励ましてくれて……」

「「んんん??」」

「これは、その証明だ、って」




 ◆◇◆◇◆




 あの修学旅行のあと、僕は離れの和室で過ごしていた。半分は寝て過ごした。悲しくて泣いたり、怖くて縮こまったり、苛立ちで喚いたりした。

 兄さんが、僕のことをあきらめずに会いに来てくれた。

 あの日は、夜だった。兄さんは夕食の食器を下げに来てくれたのだったか。

 お盆に乗ったご飯とおかずは、僕の好きな物ばかりで。

 なのに、僕はほとんど箸もつけずに残した。いま考えると、お母さんごめんなさい。

 夕暮れから、電気もつけないまま暗くなった部屋に、兄さんは来て声をかけてくれた。

 元気か、とか、大丈夫かとか。聞いては、ごめん、元気でも大丈夫でもないよなって、謝って。

 兄さんの困ってる気持ちもわかるのに、僕はつらくて何も考えられなくて、ただ涙が落ちた。

 そうしたら、兄さんは僕の頬を両手で挟んで、涙を拭ってくれた。それから、そのままキスされたんだった。

 唐突なそれに、僕はびっくりして、拒絶するように両手で兄さんの胸を押しのけた。

 押しのけたはずだったけど、僕の手は兄さんのシャツを掴んで、どこにも行って欲しくなかった。

 その日の夜は、月明かりが差し込んで、兄さんの優しい顔がよく見えたよ。

 兄さんは僕の瞳の奥から、僕の気持ちを読み取ったんだと思う。

 優しく、僕に(私に)もう一度キスしてくれた。

 ……そうして、僕は何日かしたあと、あの部屋を出た。

 ……えっと、女子会だからって、全部話さなくても、いいよね?




 ◆◇◆◇◆




「こ、これは重大な事実」

 さしもの私も柚羽も、驚愕を隠せない。

「励ましのキス……これはもう、すでに付き合っててしかるべき事案」

 私は腕組みしていた。想像以上の証言が出てきてしまった。

 ていうか、もう葉月先輩がリオくんを受け入れる土台は、すでに出来ているのでは。

 いや待て、最近の空気を読みとっているからこそ、リオくんはお兄さんの拒絶を恐れているのだ。

「あの先輩、乙女の唇を奪ったくせに……」

「理々香ちゃん、心の声が口に出ちゃってるよ」

 リオくんに、今は会いたくないとまで言わしめているのだ。

 俯いたリオくんが、状況を思い出したように涙を浮かべる。

「ああ! もう、泣かないの。私らしかいないとすっかり女の子なんだから」

「ご、ごめん」

 慌ててリオくんが涙を拭う。

「いいの! 誤解しないで。責めてるんじゃないよ。女の子らしい、自分らしいリオくんを、私らの前では見せていいんだから」

 私の言葉に柚羽も続く。

「そうそう。リオくんの春詩センパイが好きな気持ち、よっく分かったよ」

「うん……うん、好き……兄さんが、好き。兄さんが好きだよう!」

 リオくんが私らに抱きついてきたのは、とてもうれしいことだった。

 そして、リオくんは自分の気持ちを、初めて言葉にして、初めて誰かに言ったのだろう。

 その感動に打ち震えて、彼女は涙をあふれさせていた。

 私のパジャマの胸のあたりが、たくさんの涙でぬれて熱かった。

 ちょっともらい泣きしそう。


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