第五話 りおの家出 (1)
莉緒の飛躍した言葉が、何を示しているのか俺にはさっぱりだ。
ほんとうに? 胸のざわめきが弾劾する。
「そ、そうだったな。いま『莉緒』は人気だし、そろそろ可愛い彼女ができるかもしれない」
莉緒が立ち尽くして、唇を結んだまま俺を見ていた。
自分自身の胸のざわつきが、酷く俺を責めたてた。
俺を見る瞳に、涙が浮かんできて、雫になってこぼれる。
「わかってない……わかってないよ!」
莉緒は玄関を飛び出していった。
「りお!」
莉緒が、あんなふうに叫ぶなんて。いままで、多分あの事件も何も関係なく、莉緒がこんなふうに感情をぶつけたことなんてなかった。
「……はる兄?」
りこが、ひょこっと台所の方から顔を出した。広い家も、大声はさすがに響く。
「さっきの大きな声、りお兄?」
やっぱり、莉緒の大声なんて、りこにとっても意外だったようだ。
「……ああ」
「ね、追い掛けなくて平気?」
心配そうに、りこが俺の袖を引く。
「……わかんないよ」
追い掛けるべきなのだろう。それなのに莉緒の拒絶が怖くて足が動かない。
玄関の引き戸のすりガラスは、夜の闇に黒く塗りつぶされていた。
それから、夕飯になっても、莉緒は帰ってこなかった。
冷めていく夕食。
電話にも出てくれない。メッセージにも返事がない。
俺は近所を探してみたけど、見つからなかった。
夜道を、誰かの原チャリが走り抜ける。暗い歩道にひと気はない。
額から滴り落ちる汗が、冷たくなってアスファルトに落ちた。
バス停も、俺が散歩に使う小道も、自販機のある広場も。
スマホを開いて確認しては、時間が過ぎていく。
21時半を回るころ、桐原理々香からメッセージが来た。
『リオくん、今夜はうちに泊めますね』
走り回って汗だくになったTシャツで、さらに流れ落ちる汗を拭う。
オレンジ色の街灯の下で、俺はスマホの画面をとじた。
(よかった……)
走り回ってがくがくの足は、俺をその場にへたり込ませた。
疲れた体を引きずって、家に帰る。
母さんも、りこも、食べずに待っててくれた。
理々香のメッセージのことを伝えると、二人は安堵の顔を見せた。
「母さん、お腹空いたよ」
俺は半笑いで母さんに訴えた。
「はいはい。温め直すわ」
「わたしもおなかぺこぺこ!」
りこと俺、二人してご飯大盛りで、おかずと白米をほおばった。
理々香の、こちらの様子を理解したようなメッセージは、それだけ安心感を与えてくれたのだった。
◆◇◆◇◆
冬以来、少し仲良くなった真白さんとのお出掛け。
その帰りに、駅ビルを通り抜けたのは幸いだった。
そうしなければ、その日リオくんを連れて帰ることはかなわなかった。
「桐原さん、ありがとう」
真白さんとのお出掛けは、公立の図書館で、私も読みたい本があったから、半日たっぷり時間を使った。
途中、お昼とお茶の休憩ではゆっくり過ごした。
真白さんとの沈黙の時間と、趣のある会話の時間は、面白かった。
駅前で真白さんと別れて、私は線路の反対側へと駅ビルを抜けて歩く。
反対側のロータリーのバス停で、制服姿のリオくんがバスから降りてきたのを見つけたのは、タイミング的にも本当にただの偶然。
最初は見間違いかとも思った。街明かりの混じる薄暗い中、学校の部活もとっくに終わったであろう時間。
小柄な青陵学園の男子制服の姿は、ちょっときょろきょろとしたけど、背後から下車してくる人たちの、迷惑そうな圧力に押し流されていった。
きっと見間違い。だってリオくんなら、こんな時間に駅に着くバスではなく、駅からバスに乗り込むのが帰り道のはずだもの。
でも、その心細そうな背中を放っておけなくて、私は追い掛けた。
「リオくん?」
そう呼びかけた。私の声に振り向いた彼は、声の主が私だと気づくまでの長い一瞬をおいて、私の胸に飛び込んできた。ともすると私より細い肩が、私の支えを必要としていた。
「……ご、ごめん、理々香。僕……」
我に返ったリオくんは、すぐに私から離れたのだけど、泣きそうなその顔を取り繕う仕草に、ただ事ではないというのはすぐにわかった。
「リオくん。私、ちょうど帰るところなんだ。うちにおいでよ」
「そ、そんな、こんな時間にだめだよ」
「リオくん、だめじゃないから」
私は、リオくんの手を握った。ひょっとすると駆けだして逃げてしまうのではないか。そんな思いがよぎって、私は逃がさないように、その手を離さなかった。
「ただいま~」
家のカギを回して家に入る。少し重たいシリンダーは、わが家に帰った安心感がある。
「お姉、おかえり~、って、お客さん?」
妹の香音が出迎えてくれた。当然ながら私が手を引く男子(制服)の姿に気づき、小首をかしげて、私の背中を覗く。
「彼女、学校の友達で葉月莉緒……さん」
『彼女』と、私はしれっとウソをつくことにした。たぶん、これは悪いウソじゃない。
「え、と、理々香……」
相談もなしだったのでリオくんが困惑するけど、ぎゅっと手を握って気持ちを伝える。
「は、はじめまして……」
リオくんが香音に挨拶をしたので、意図は伝わったと判断。
「さ、あがって?」
私たちが靴を脱ぐ間に、香音がリビングに声を上げる。
「おかあさーん。お姉が友達連れてきた~」
「まあ、なんですかお客様の前で」
ぱたぱたとスリッパの足音を立てて、母さんが出てくる。
「お、お邪魔します。葉月莉緒といいます」
ちゃんと挨拶をするリオくんの物腰と、おとなしそうな顔立ち、何よりきれいな女の子の容姿が、母さんたちの警戒心をあっさりと解いた。
「あらー、いらっしゃい」
母さんの目と心は、すっかり美少女に奪われている。
「急でごめん、彼女をしばらく泊めるから」
私は宣言した。もうこうなったら、一晩とは言わず「しばらく」と先手を打つ。
「そうなの? わかったわ。あなたの部屋にあとでお布団運んであげる」
母さんは気づいていないのか人様の手前いい格好をしているのか、なんてことはないという態度で請け合った。
「ありがと」
お礼を言って、リオくんを二階に促す。リオくんはぺこりと母さんにお辞儀して、私についてきた。
私の部屋は、ベッドが一つ、勉強机が一つ、本棚にクローゼットと小さな洋服ダンスが一つ。
フローリングにふかふかの丸いカーペットが真ん中に敷いてあって、小さなテーブルが置いてある。
あと、小さなベランダがあって、香音の部屋にはないのがちょっとだけ姉の特権。
「適当に座って?」
クッションをテーブルのそばにおいてあげると、リオくんは身の置き場を探すように、そこに座って、落ち着こうとしていた。
と、そこへ香音が再び顔を出す。
「おねえ~、母さんが、晩御飯、リビングで食べるか、部屋で食べるか、だってー」
「んー、今日は部屋で食べるー、明日みんなに紹介するから」
「はーい」
そんな返事とともに、とたとたと階下に降りていく。
「さんきゅー」
よくできた妹だ。うん。




