第三話(4)
すりガラスの向こうで、りこは床に座ったみたいだった。
「テレビ、観るんじゃなかったのか?」
「放送時間、間違えてた。いつもより一時間早く始まってて……」
「あ~。途中からだと入り込めないもんな」
俺は泡だらけの体をプラスチックの桶で流す。湯船にざばっと浸かって、りこの様子を窺った。
「それで、なんかあったのか?」
「んー、べつに」
「そか」
俺は湯船の湯を手に掬って顔を洗う。ふう。いい湯だ。
りこの様子は静かで、何か考えこんでいるのは確かなのだろうが、何も言わない。
「あのね……」
「うん」
いつでも聞いてやるぞ。
「やっぱり、なんでもない」
りこはとたとたと、洗面所から出ていく。
ふう、なんなんだろうなあ。
長湯するたちではないので、俺はさっさと湯船を出た。
『それは、何か言いたい、言って欲しい、っていう気持ちがあるんだけど、言葉にできないんですよ。言語化できないってやつです』
俺はお風呂上がりに、とみちゃんにメッセージを送って助けを求めた。その返事がそれだ。
正直、妹との付き合い方は、この攻略本じみた妹の友人がいないと太刀打ちできそうにない。
言って欲しい何か……。難しすぎる。
年頃の女子って、こんなもんなのか。真白が変わってるのか? もしかすると、真白も何か言いたかったのかな。生徒会長、同学年の女子、俺を恋人に選んでくれた女の子のことを思い出す。
濡れた頭をタオルで拭いているつもりが、いつの間にかかきむしっていた。
夜風にあたろうとして中庭に出ると、「離れ」に明かりがついている。
わが家の中庭は、なかなかに広い。
池もあるし、なんならその池に石造りの橋もかかっている。
ほんと、大人になったら旅館でもやろうかしら……いや、このあたりに宿泊する理由がないな。やめよう。
カランコロン、と木のサンダルを鳴らして離れに行ってみると、和室に莉緒がいた。
広げられた布団をたたんでいるようだった。
「どうしたんだ?」
「母さんに頼まれて。干してた布団をたたんでおくのと、窓を閉めて、だって」
「了解」
俺は離れの各部屋の窓を閉めて戸締りした。和室と、二階の洋室。確かに、手を入れないとかび臭くなる。今日は天気が良かったからな。離れもたまに空気を入れ替えてやらないと。
母さん、きっと晩御飯の準備で、離れの窓を開けておいたのをすっかり忘れて、今思い出した、ってところだろう。
窓を閉めて回って、もとの和室に戻ると、莉緒も最後の布団を押入れにあげたところだった。
押入れの襖をそっと閉じた莉緒が、俺に背を向けたまま俯いていた。
「どした?」
「この部屋にくるとね……思い出すよ」
そうだな。愚問だった。
この和室は、あの事件のあと、傷ついた莉緒が閉じこもった部屋なのだ。
あの事件で、今の莉緒からは考えられないくらい、塞ぎ込んだ。中学の修学旅行で、京都から莉緒の手を引いて連れて帰ったけど、俺は、母さんにも説明につまずいたし、りこにも当然言えない。聞かれることにすら恐怖を覚えた莉緒は、子供部屋に帰らず、孤独な離れに閉じこもった。
俺は、毎日莉緒に話しかけに行った。離れに鍵はかかってなくて、和室も、別に障子が締まっているだけ。開けようと思えばいくらでも開けられるけど、俺は障子の外から、莉緒に声をかけた。
最初に話したのは学校の様子。これはなんだか反応が良くなかった。失敗だった。距離を置きたいものの話はまずかった。それから、俺はしょうもない話をした。今夜やるバラエティ番組の話だったり、今度やる映画がどうだとか、アイドルがスキャンダルでスクープされたとか。ほんとにどうでもいい、くだらない話。
そしてある時、俺はなんと声をかけたんだったか。
莉緒も、昔を思い出しているのか。ずっと押し黙っていたが、俺の方を振り向いて見上げた。
そうだ、莉緒って、あのころから背が伸びてないんだな。十センチくらい低い莉緒の目線を、俺は見下ろしていた。
「ねえ……最近ね。修学旅行のころのこと、思い出しても平気になってきたよ」
莉緒は、少し目線を外して、部屋を見回す。
「嫌な気持ちもあるけど。それより、兄さんがしてくれたことを思い出して、心があったかくなるの」
もう一度、莉緒は俺を見上げてくる。
「おれ……なにしたっけ」
俺の胸に、莉緒はとん、おでこをくっつけて、もたれかかる。
「あれ? あれ? なんだったっけ?」
「もう、仕方ないなあ、兄さんは。――、したでしょ」
莉緒が何か言った。
でも思い出せない。
ここで、俺たちはどんな話をしたっけ。
足元が、急に不確かになって、目眩のような感覚に俺はのまれていった。
「り……お……」
俺は真っ暗闇で目を覚ました。これは、俺の声か? かすれた音が、喉を震わせた。
なにか、大事な言葉を紡いだ気がする。なんだったっけ。
全身が痛い。何だっけ……。でも、いいや。
まだ眠い……あしたで、いいだろう?
暗い部屋の中で、何かの電子機器が光っていて、規則的な音を繰り返していた。
眠れ、眠れと強制するように、その音は目を瞑った俺の脳裏に響いて消えていった。
「おはよう、兄さん」
目の前に、莉緒の顔があった。
「お、おはよう……」
あたりは、まだ薄暗くて、世間様はまだ寝静まってる。
窓から入る夜明け前の青い色が、少しだけ子供部屋の暗闇を打ち消していた。
家の前の通りを、新聞配達のカブが走っていく音がした。
「はる兄、すごいうなされてたよ?」
莉緒の隣には、りこもいて、俺をのぞき込んでいた。
「ええー……」
「なにか夢でも見た?」
そう言われると……いや。
「いやあ、よく寝た。夢なんてみないくらい」
うん、さっぱり思い出せない。
「んもー、人騒がせなんだから」
りこが自分の布団に戻ってもぐり込むと、掛け布団を俺の布団に引っ付けて、にじり寄ってくる。
「布団に入ると怒られるから、こうやって引っ付いて寝てあげるね」
すると莉緒も、敷き布団を俺の布団に引っ付けてから、布団にもぐり込んでじりじりと近づいてくる。
「一緒にいるから、安心して」
「わたしたち、お兄ちゃん思いでしょ?」
「そ、そうだな……」
うーん、ぐっすり眠れそうだ、とか、言っておいたほうが良いのかな。
少なくとも、まだ起きる必要はない時間だ。たっぷり二度寝が楽しめる。
きっと、俺の素質をもってすれば、もう一度ぐっすり……だ。
両手に二人のぬくもりと、穏やかな寝息を聞きながら、俺は眠りに落ちていた。




