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はるうた 3 真白の雪  作者: 夏衣一衣(なつい・かさね)
第三話 サトザクラと長谷川結衣
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第三話(3)

「兄さん、どうしたの?」

 制服の上着を小脇に抱えた莉緒が診察室に戻ってきて、俺の顔を覗き込んだ。この診察室では、周囲の関係者を莉緒が信頼しているのがよくわかった。とてもリラックスした表情。家とは違う種類の、気の抜けた顔だ。

「いや、大丈夫」

 くそう、長谷川医師が、あんなことを言うから。

 ワイシャツ姿の莉緒は、普段ブレザーに隠された線の細さがあらわだった。そこに見えるワイシャツのふくらみを示すように、ネクタイが曲線を描いている。

 隠すべきものを隠せていないのが、俺の気持ちをかきむしる。夏服の時期になったら、どうやってほかの男子の目から莉緒を守ってやればいいだろう。そんなことを考える俺は、ほかの男子たちより変態なのか。

「はい、莉緒君おかえりー。そしたらお兄さんは待合で待っててね。今日はきてくれてありがと!」

 言われるがまま診察室を出て、俺は待合室のソファに崩れ落ちた。

 診察室で、莉緒がいない間に続いた会話を俺は反芻する。

『あとね。これは公式の診療ではいえないけどね』

 ふふん、といたずらっぽい笑みを長谷川医師は浮かべた。

『恋で胸もおおきくなるんだよ♪』

 こ、このセクハラオヤジ……!

 まあ女の子らしいってのはそういう部分も含めてなのはわかるよね。それにあくまで個人的な見解だし、と補足しながら、彼女はつづけた。

『莉緒くんは神秘だよ。それでさ、仮に、仮にだよ? 私は莉緒君と呼んでるけど、いずれ彼、あるいは彼女が自分を定義するときがくる。ひょっとしたら、もう彼の心のどこかで決まっているのかもしれない。自覚のあるなしに関わらずね。でもね、その相手が莉緒君の気持ちを受け入れてくれる相手とは限らない。恋って、必ずかなうものじゃないでしょう? 恋願うものだから。その時にも、莉緒君が自分で自分の心を守れるくらい強くなれるか、私は心配してる』

 その不安は、俺が感じるものでもあった。いつか莉緒が心に決めた相手が、もし莉緒を拒んだら、莉緒の心は耐えられるのだろうか。

 ふざけているのか、まじめな話をしているのか、長谷川医師に翻弄された三十分だった。




 二人して帰宅したのは、日が落ちるころ。ちょっと日が長くなったね、なんて会話をしながら。

 二階の子供部屋に入ると、早々に莉緒は制服を着替え始める。

 俺は、なんだか逃げるように制服のまま台所へ降りた。ネクタイだけは外して。

「兄さん、着替えないと制服しわになるよ?」

 障子の向こうで莉緒が言うので、足を止めてしまう。

「ああ」

 しゅるしゅると衣擦れの音を聞いて、思い出したように俺は階段へと足を動かした。長谷川医師のせいで、莉緒とどう接すればいいのかわからない。




 台所に行くと、母さんはいなくて、りこがお茶菓子をほおばっていた。

 母さんは、と聞くと近所に買い物らしいから、すぐに帰ってくるだろう。

「そうだ。はる兄、ちょっといーい?」

 りこが、思い出したように立ち上がると、不意に抱きついてきた。

「やっぱ、固い。ごつごつするー。背もおっきいよね」

 抱きついたりこが俺を見上げて感心していた。果たして身長差二十センチ少々は、兄の面目に十分なのだろうか。背中に手を回して、胸板にほおずりしてくるりこ。

 ついには、すーっと大きく深呼吸をしはじめる。

「うーん、汗くさーい」

「うぉ! ま、待てまてマテ」

 りこの肩を突き放すように引っぺがす。

「どうしたんだよ、兄ちゃんびっくりだよ」

「わたし今朝、りお兄に抱きついたでしょ?」

 ああ、感謝のあまり抱きついたやつだよな、と俺は思い返した。

「そしたら、りお兄って、柔らかいんだよ。女の子みたいに」

「そ、りゃ……」

 知ってるよ、莉緒は柔らかくて、軽くて。お姫様抱っこしたもん。

「あと、はる兄みたいに汗臭くなくて、いい匂い」

「余計なお世話だ!……じゃなくて、お前も知ってるだろ?」

 俺は顔を寄せて小声で言う。

「わ、わかってるけど、やっぱり実感なかったっていうか、さ。今日初めて実感したっていうか……」

「だからって、他の男子に闇雲に抱きつくなよ。変なカンチガイのもとだからな」

「バカはる兄、するわけないじゃん」

 ぷいっと、りこが顔をそらす。わかればよろしい。

「ねえ、なにやってるの?」

 と、二階から降りてきた莉緒がクール、かつ怪訝な顔で俺たちを見ていた。

 俺の手が、りこの小さな肩に乗っていて、つまり二人はそれくらいの距離で顔を寄せて喋っていた。ちょっと兄妹にしては近すぎる距離で。

「なっ、なんでもない! だろ?」

「そうそう!」

 りこと二人、顔を見合わせてそのことに気づくと距離を取った。

「ふうん……お茶、淹れるね」

 ほどなく母さんも帰ってきて、四人でのお茶の時間から、いつもと変わらない食卓。

 たぶん、いつもと変わらない。だけど、ちょっとずつ変わってたのかもしれない。




 ◆◇◆◇◆




 夕食後に、一番風呂をいただいて、一日の疲れを洗い流す。

 いやさ、ちゃんと家事の手伝いとして風呂掃除くらいはしたさ。

 そして、みんなに先に入ってもらおうと思ったんだが。

「えー、お風呂ぉ? ちょっと見たいテレビがあるんだけど!」

 居間のデカいテレビで国民的人気アニメの劇場版地上波初放送を見るという妹。

 もう、先に入っとけよ。

「ごめん兄さん、ちょっとやりたいことがあるから先に入って」

 勉強机で何やらノートを開いている弟。勉強か? えらいな。

「ハル、さっさと入ってしまいなさい」

 子供たちが風呂まで終わらないと落ち着かない母。はい、すんません。

 そんなわけで、自分で自分を片付けるべくわしゃわしゃと体を洗う。洗いながら、長谷川医師の言葉を反芻して、つい身体を擦りすぎてしまう。

「ねえ、はる兄?」

 すりガラスの向こうに、りこがいつの間にか立っていた。びっくりした。


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