第二章 私たちの子
三日後、家令がアルフォンスの執務室に一通の報告書を持ってきた。
「セシリア様についてでございます」
アルフォンスは書類から顔を上げた。
「何かあったのか」
「ヴァレンシュタイン侯爵家のユリウス殿と、頻繁に会っておられるようです」
「夜会でか」
「いいえ」
家令は少し間を置いた。
「人目を避けて」
アルフォンスは差し出された紙を受け取らなかった。
「何かの間違いだ」
家令は驚いた。
主人が証拠より感情を優先したところを、長年仕えて初めて見た。
「三度確認しております」
「本人に聞く」
「アルフォンス様」
「セシリアが、そんなことをするはずがない」
言ってから、アルフォンス自身が自分の言葉に違和感を覚えた。
だが、それでも信じたかった。
その日の夕刻、彼は報告にあった王都西地区の小さな屋敷へ向かった。
貴族が密会に使うことの多い貸館だった。
二階に明かりがついている。
庭側へ回ると、わずかに開いた窓から声が漏れていた。
「本当にあの男と結婚するのか?」
ユリウスの声だった。
続いて、アルフォンスが幼い頃から聞いてきた声。
「結婚しないわけにはいかないでしょう。うちの家がどれほどグランフェルト家に借りていると思っているの?」
セシリアだった。
アルフォンスは足を止めた。
「なら、俺は?」
「何を心配しているの」
「結婚したら会えなくなる」
「そんなことないわ」
セシリアは笑った。
「アルフォンスは私を疑わないもの」
「よほど信用されているんだな」
「昔からよ。あの人、融通は利かないけれど、一度信じた相手を疑うことができないの」
アルフォンスは窓の下で、じっと立っていた。
「それにしても、よくあんな男と暮らせるな」
ユリウスが笑った。
「昔から変わらないの。真面目で、仕事ばかりで、冗談一つ言えない。夜会へ来たって穀物や街道の話でしょう。本当に面白みのない人」
「どうして婚約した」
「子供の頃から決まっていただけよ」
その一言が、胸の奥に深く刺さった。
アルフォンスの記憶とは違う。
十二歳の冬。
両家の父親から婚約について尋ねられた時、セシリアは嬉しそうに自分の手を取った。
『アルフォンスならいいわ』
自分も答えた。
『私もセシリアがいいです』
決められたから受け入れたのではない。
少なくとも自分はそう思っていた。
「昔は好きだった気もするけれど」
窓の向こうでセシリアが続けた。
「子供の頃のことでしょう?」
アルフォンスは目を閉じた。
それだけなら、まだよかったのかもしれない。
浮気だけなら。
その後の会話さえ聞かなければ。
「結婚したあと、どうする?」
ユリウスが尋ねた。
「あなたを公爵家に入れるわ」
「俺を?」
「アルフォンスの側近にでもすればいいのよ。あの人は領地経営しか興味がないもの。社交や王都での仕事はあなたがやればいい」
「俺たちの関係が露見したら」
「露見しないわ」
「子供ができたら?」
わずかな沈黙。
そしてセシリアは、何でもないことのように答えた。
「アルフォンスの子ということにすればいいでしょう」
ユリウスが笑った。
「本気か?」
「何がおかしいの」
「俺の子を、公爵家の跡取りにするのか?」
「それの何が悪いの?」
アルフォンスは動けなかった。
「アルフォンスは子供を可愛がるでしょうし、疑ったりもしないわ。あなたに似ていたって、成長すればどうとでも言えるでしょう?」
「グランフェルト公爵家を俺たちの子が継ぐ」
「そういうこと」
二人は笑った。
「その頃には、アルフォンスには領地で静かに暮らしてもらえばいいわ」
「拒んだら?」
「疲れているのだから、病気にでもなってもらえばいいでしょう」
その後の会話は、ほとんど耳に入らなかった。
アルフォンスは静かにその場を離れた。
屋敷へ戻ると、執務机の一番下の引き出しを開けた。
古い木箱。
中には脚の長さが揃っていない木彫りの馬が入っている。
七歳のセシリアが彼の誕生日に作ったものだった。
十四年ほど持っていた。
父ヴィルヘルムが入ってきた。
「聞いたそうだな」
「はい」
「婚約は終わらせろ」
「そうします」
「それで十分だ」
アルフォンスは木彫りの馬を机に置いた。
「いいえ」
父が息子を見る。
「十分ではありません」
「アルフォンス」
「ほかの女なら」
声は驚くほど静かだった。
「婚約を破棄して終わりにできたでしょう」
父は黙った。
「セシリアだから許せないのです」
「……」
「私だけならまだいい」
アルフォンスの手が、木彫りの馬の背をなぞった。
「父上から受け継ぐ家も、私が次の世代に残そうとしていたものも、すべて自分たちのものにするつもりでした」
ユリウスの子。
それを自分の子として育てる。
そして公爵家を継がせる。
「私の人生すべてを、あの二人は笑っていた」
ヴィルヘルムは長い間、何も言わなかった。
「何をするつもりだ」
アルフォンスは答えた。
「まだ分かりません」
ただ一つだけ、はっきりしていた。
「許すことだけはありません」




