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退屈な男は、あなたを許さない  作者: ゲント・カイ


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第十章 それでも人生は続く

ユリウスが死んだのは、それから二か月後だった。


 赤い山羊亭で若い職人と喧嘩になった。


「俺は昔、近衛だった」


 酔ったユリウスが言うと、相手は笑った。


「近衛が昼からこんな店にいるかよ」


 昔なら無視できなかった。


 今も無視できなかった。


 外へ出た。


 数人を相手に殴り合いとなり、路地裏で刃物を受けた。


 二十四歳で近衛騎士だった男は、二十六歳で誰にも看取られず死んだ。


 三日後、役人がセシリアの部屋へ来た。


「ご主人で間違いありませんか」


「はい」


「亡くなられました」


「そうですか」


 涙は出なかった。


 もう愛してはいなかったのかもしれない。


 それでも、同じ穴に落ちていった最後の同行者だった。


 一人になった。


 春が近づく頃、セシリアは熱を出した。


 最初は寝ていれば治ると思った。


 しかし咳が続き、食べ物を買いに出ることも難しくなる。


 医者を呼ぶ金はない。


 昔の友人を何人か思い出した。


 住所さえ分からない。


 向こうも、自分がどこにいるのか知らないだろう。


 机の上には紙があった。


 セシリアは何度も手紙を書こうとした。


 宛先は分かっている。


 アルフォンス・グランフェルト。


 けれど何を書けばいいのか分からない。


 助けて。


 許して。


 ごめんなさい。


 どれも遅すぎる。


 結局、一行だけ書いた。


『あなたが退屈な人ではなかったことを、今になって知りました。』


 その下に、


『ごめんなさい』


 と書いた。


 送らなかった。


 自分が謝れば、彼に許すか許さないかという選択をもう一度押しつけることになる。


 最後くらい、それをしない方がいいと思った。


 その夜、夢を見た。


 古い樫の木。


 十歳のアルフォンス。


 六歳の自分。


 歪な花冠。


「アルフォンス!」


 少年が顔を上げる。


「できたわ」


『歪んでいる』


「いいの。頭を下げて」


 彼は渋々従う。


「笑って」


『面白くない』


「だったら私が面白くしてあげる」


 幼い自分が笑う。


『アルフォンスはつまらなくなんかないのに』


 目を覚ます。


 暗い部屋。


 誰もいない。


 セシリアは薄い毛布の中で目を閉じた。


「本当に……ごめんなさい」


 翌朝、彼女は冷たくなっていた。


 二十三歳だった。


     ◇


 数年後。


 アルフォンス・グランフェルトは父から爵位を継いでいた。


 新しい公爵夫人もいる。


 派手な女性ではない。


 領地の学校や孤児院に関心を持ち、夫が夜遅くまで働けば執務室へ茶を持ってくるような女性だった。


「まだ仕事ですか」


「ああ。来年の橋の予算が合わない」


「あなたは本当に昔から変わりませんね」


 妻が笑う。


「退屈か?」


「いいえ」


 その返事に、アルフォンスの手がわずかに止まった。


 妻は気づかなかった。


「そういうことを考えてくださる方がいるから、私たちは安心して暮らせるのでしょう」


 彼女は茶を置き、部屋を出ていった。


 アルフォンスはしばらく湯気を見ていた。


 やがて仕事に戻った。


 数日後、家令が古い記録を整理していた。


「閣下」


「何だ」


「セシリア・ローデンベルクとユリウス・ヴァレンシュタインについての記録が出てまいりました」


 アルフォンスは受け取る。


 最終ページ。


 ユリウス、二十六歳、死亡。


 セシリア、二十三歳、死亡。


「公爵家が両名に対して行った措置についても整理されております」


 婚約解消。


 ローデンベルク家への援助終了。


 それだけだった。


 就職妨害。


 なし。


 住居への介入。


 なし。


 商会への圧力。


 なし。


 酒場への介入。


 なし。


 セシリアの働いていた店への取り締まり要請。


 なし。


 家令が言った。


「世間では今でも、閣下が両名を徹底的に追い詰めたと思っている者がおります」


「そうか」


「訂正なさいますか」


 アルフォンスは紙を置いた。


「必要ない」


「承知いたしました」


 家令が退室する。


 アルフォンスは机の引き出しを開けた。


 奥に木彫りの馬がある。


 脚の長さが違う。


 真っ直ぐ立たない。


 二十年以上前、幼い少女が作ったものだった。


 手に取る。


『アルフォンスはつまらなくなんかないのに』


 覚えている。


 忘れたことなどない。


 彼女が死んだと聞いた時も、喜びはしなかった。


 胸が晴れることもなかった。


 自分が望んだ復讐だったはずなのに、最後まで自分の手で何かをすることはなかった。


 周囲の人間が勝手に動いた。


 自分たちの利益を守るため。


 公爵家の機嫌を損ねないため。


 そして何より、二人を信用できなかったから。


 それを止めなかった。


 そこだけは自分の選択だった。


 アルフォンスは木彫りの馬を暖炉の前まで持っていった。


 炎が揺れている。


 手を伸ばせば終わる。


 だが、投げ入れなかった。


 死者を許す必要もない。


 憎み続ける必要もない。


 過去をなかったことにする必要もない。


 彼女を愛したことまで、自分の人生から消すことはできなかった。


 机に戻り、木彫りの馬を引き出しの一番奥にしまった。


 翌朝。


 アルフォンスはいつも通り早く執務室に入った。


 机の上には領地から届いた報告書が積まれている。


 北部の橋。


 穀物備蓄。


 冬の薪。


 学校建設。


 どれも華やかではない。


 誰かを笑わせるようなものでもない。


 それでも、その一枚一枚の向こうに人間の暮らしがあった。


 アルフォンスは最初の報告書を開いた。


 数年前より、少しだけ眠れるようになった。


 妻の前では、ごく稀に笑うこともある。


 昔のような自分に戻ったわけではない。


 それでも、傷ついた場所を抱えたまま、人間は少しずつ先へ進むことができる。


 窓の外を荷馬車が通った。


 遠くで学校へ向かう子供たちの声が聞こえる。


 真面目で。


 融通が利かなくて。


 面白みがない。


 かつて愛した女にそう笑われた男は、その日も黙って仕事を続けた。


 誰かに評価してもらうためではない。


 もう、それだけを求めて生きる必要はなかった。


 彼の人生は、まだ続いていた。


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