水に月は混じる
秋風が吹き、潮の匂いが満ちた夜の浜辺。
俺は月乃と一緒に、地区大会突破記念の打ち上げ帰りに散歩をしに来ていた。
さざなみが心地よく響き、波が揺れる様は、俺たちの間にある距離が縮まっては遠ざかり、縮まっては遠ざかりを繰り返すサイクルを表しているようだった。
ふと、足を止めて、海を見てみる。
水面は月明かりに照らされて乱反射をし、その輝きは俺の目を奪って離さなかった。
「海にたそがれるなんて、随分と気取ってる。演劇をやってれば、そうやってロマンチストになるものなの?」
月乃は足を止めた俺に向かって、一歩先で話しかけてくる。
彼女はいつも変わらずのポーカーフェイス。
もしかしたら、達成感に酔っているのは俺だけなのだろうか?
いつまでたっても読みきれない思考に頭を悩ませながら、俺は月乃に言葉を返す。
「それ言うなら、月乃はどうなの?俺はだいぶ、達成感に酔ってるんだけど。今ならこの広大な海でさえ、自分ごとのように思えてくるくらいに、自分っていう存在を認めれる気がする。」
「残念ながら、あなたみたいにポエムを連ねて語るほど、分かりやすい思考回路をしてないので。
海は海。私は私で、あなたはあなた。
連想ゲームをしたって、あなたと私は決して結びつきやしない。
もっとも、あなたは無理矢理にでも、私を引っ張り出すんでしょうけど。」
「無理矢理にって…俺そんなことしたっけ?」
「高校生なんだから、少しくらい自分の行動に責任を持ってもらいたいくらいだけど。
全部、あなたのせい。あなたが私から、君津を奪って、勝手に暗がりに閉じこもったと思ったら、先へ進んで、そんなことをされたら、私は動かないといけない。
だから全部、あなたのせい。」
彼女は努めて冷静に、そっけなくそんなことを言ってしまう。
その言葉は、水切りに失敗した石のように、チャポンと俺の心に音を立てて沈んだ。
「いや、今回の劇は結果も練習も、全部月乃自身の実力と根気だよ。俺は月乃みたく、何かに惚れ込んで、それに没頭することが出来なかった。
そんな俺の横に、月乃みたいな立派な人が立ってくれた、共演してくれた。それが俺の、パートナーからの依存を断ち切ってくれた。
ありがとう、月乃。」
「…そう。別にあなたのためにしたわけじゃないんだけど、それはあなたも同じようだし、一応私からも、ありがとうございます。」
月乃が感謝の言葉をポツリと呟き、荒涼とした瞳に俺を映す。
彼女がくれた感謝の言葉はあまりに唐突で、普段は悪態をついてくるあの月乃が…そんな失礼な思いが先行して、嬉しさと戸惑いが頭の中を支配した。そのせいか、俺はついつい余計なことを言ってしまう。
「今ありがとうって…」
「…何?」
「いや、何って程じゃないんだけど…」
「私がお礼も言えない人間って言いたい訳?
…私だって、嬉しくないわけじゃ…ない。ただ、大っぴらに喜ぶのは…なんだか出来なくて。
折角主役気取ってるんだから、適当にいなして、白馬の王子様。」
ぷいっと顔を背けて、口調はいつものように気丈に振る舞う。
見られたくない顔だということは分かっているが、揺れる水面が視界にちらつき、そこに映った月乃の顔は海に似つかわしくない色に染まっていた。
その顔に、何か自分の中で、一つ…いや、複数の感情が絡まって、散り散りになって、固まって、言い表せないものが形成されていくのを感じた。
白馬の王子様。
きゅっと、胸が苦しくなる。振り払いたくなるような思いになるはずなのに、どこかそれをなぞるのは心地よくて。いつのまにか海を見ていたはずの目は、月乃を追っている。
…そうだ。聞かなければならない。
俺は前にも、こんな思いをしたことがあった。
「…あのさ、打ち上げで誰も聞かなかったから流してたけど、最後のやつさ…」
最後のやつ、なんて抽象的な表現は、まるで海風のように実態が無かったが、月乃はそれに肩を震わせ、環境音に混じるように言い淀みながら、言葉を吐いた。
「…あれは役"鶴澤千佳"に即しただけ。あの状況なら、鶴澤千佳はきっとああするって、優秀な演出監督が言ってくれたから、私は実行したに過ぎない。
残念でしたね。ロマンチストさん。」
「…全部演技か。敵わないね、月乃には。
やっぱりすごいよ。いくら劇中のキャラがきっとやるからって思ったって、そこまで普通できないし。」
「…だから、あなたのせいだって…」
「?だから、月乃の実力…」
「あなたがしっかりしてくれたから、鶴澤千佳は、あの場面であなたに全てを捧げれた。
…全部とは言わないけど、あなたの"おかげ"
こう言えば、やっと理解できる?唐変木。」
「…!なんだか、今日はいろんな月乃が見れて、嬉しいな。ありがとう、月乃。ちゃんと好きになってもらえて良かった!」
「…減らず口。そういうところが嫌い。」
そういうと、彼女はこちらに顔を向けることなく足を進める。
砂浜には月乃が足跡が刻まれて、それは少し大きめの波がくれば、そこに水が染み込んで、形を戻した姿は月明かりに照らされる。
「今日はこれでお開き。また明日、松尾。」
上擦りもしない、しなやかでハリのある低音の声は、あっさりとこの時間を終わらせようとする。
どんどんと遠くなっていく背を見つめるたび、何かが叫ぶように体を動かそうとする。
だが、それとは裏腹に、どこか縮こまり、萎縮して立ち止まろうとするものも、どんどんと大きく、強くなって、波をせき止めようとする。
広々とした浜辺の中、ここにはたった二人しかいない。
俺には一人、頼れる相棒がいる。
たとえ大海の底、たった二人しかいない空間に閉じ込められても、一生寄り添って生きてける相棒。
これまでも、きっとこれからも、俺の人生で、彼は関与してくれるだろうけど、ここからは、一人で行くよ。
どうやら月は、高く、たった一つしかないみたいだから。
"…頑張れ、水月。"
「…声かけて呼び止めればいいのに。いきなり手を握るとか非常識。」
「…ごめん。それだと、止まってくれない気がして。
言葉だけじゃなくて、行動でも見せてやんないと伝わらないなって、月乃の演技を見て思ったから。」
「そう。
…目、水色。」
「うん。今はそぞろと別れて別行動。言いたいこと言えたら合流するつもり。」
「結局一つにはなれなかったってこと?最後まで締まらないの。」
「…元々、俺たちは別々で、一つになったと思ったのは思い込み。でもあの時、確かにお互いの気持ちをしれた、ようやくほんとの意味で分かり合えた。
それで今は…松尾水月を空海月乃に知ってもらいたい。
だから、そぞろには送り出してもらった。」
月乃を目の前にすると、笑ったらいいのか、なるべくカッコつけたらいいのか、どちらとも正解じゃない気がして、自分がどんな顔をしてるのか分からなくなる。
心臓の音がドクドクと高鳴って、波の音を掻き消して、月乃に聞こえてるんじゃないかと不安になる。
「…じゃあ私が、あなたに興味がなくて、別に知りたいと思ってなかったら…どうするの?」
ニヤリ。彼女が今日、初めて笑う。
妖艶で狡猾な瞳が、俺の顔を捉えて、握っている手を頬の辺りまで持ってくる。
「変わってみせるよ。どこまでも強く、月乃が焦がれるような人間に。
自分の心に、親友に、月乃に、もう嘘をつかない。
絶対に変わらない。自分の好きなものを、俺は守り抜く。
…だから、月乃も俺に、本当の月乃を見せてほしい。」
俺の声は、一体どこに届くだろう。
舞台で演技をしているとき、俺は対面してるキャラや客席に向かって言葉を投げかける。
役というフィルター、劇という安心感。これらがあり、役の言葉は俺の言葉でない以上、虚無に吸い込まれることなく、ちゃんと他の人に届いている。
もし、これが役でなく、松尾水月自身の言葉だったら。
ただこの、だだっ広い海に、小さな飛沫すら起こせないのだとしたら。
いつまでも消えない、弱く醜い俺の本音は、まだ伝えれていない。
ただ、この瞬間、もうすでに…
「…なら、確かめてみて。覚えて、ほんとの私。」
くいっと、顔を上げて目を閉じる。
右手の方は、繋がってるから左手で、月乃の頬に手を当てる。
そうしてあげると、少し怯えた声を漏らして、柔らかなその身を俺に預ける。
そう、もうすでに、先程の弱音は消えていた。
月乃が見せてくれた弱さに、俺は強さで返す、それを変えるわけにはいかないから。
やけに体が熱い。
視界が遮断されると、全てに敏感になる。
瞼から入り込む月明かり、穏やかな波、触れ合う肌。
幻想的で、夢のよう。
たった数秒、息が止まるような情景で、
俺たちは愛を交換した。
「…覚えた?私の形。」
「…ああ。どんなに何かを演じても、多分俺は、これが一番好き…かな。」
「…そ、よくできましたね。松尾。」
いつになく詩人ぶった心は、その言葉を掴んで離さない。
力一杯輝いて、暗い世界を映し出す。
…いつもより、月が綺麗だった。




