オーディション③
ジリリリリ!!
いつもと変わらない目覚ましがけたたましく鳴る。
気怠そうに唸りながら布団から出て、最初に目につくのは自分の机。
その上にはノートが置いてあり、私は今日は珍しくスマホより先にそれを手に取った。
"演技ノート"。そう書かれたものを机に展開して、一番最新のページを開く。
9月2日。
昨日の日付。
何かを書こうとして、何も書かずに白紙で終わったページだ。
私の心は晴れたとしても、何を、どうするか、それがまだ決まっていない。
私の過去、それを否定しないようにするとしても、変わらないままでいいはずがないのは分かっている。
変えるもの、そして変えないもの。
自分の人生の羅針盤。
それを見失っていては、演技の方向性も全く定まらないだろう。
朝ごはんはトーストだった。
私はいつもパンの耳から食べて、真ん中にはイチゴジャムを塗る。
この流れは、私のルーティンの一つで、これは変えるべきなのか、少し考えてみる。
一口、二口と食べるたびに、ああ、変えたくないな、思えてくる。
私の好きなもの。
これを無理に変える必要はない。
次に、いつも通り歯磨きをする。
洗面台で軽く顔を洗った後、歯磨き粉をささっと歯磨きにつけて歯を磨く。
シャカシャカと規則正しい音を立てて歯を磨くのも、一つのルーティンだ。
これがないと、口の辺りが気持ち悪くて、朝が落ち着かなくなる。
これは私の生活において必要なもの。
よって、変えることはない。
必要なものと、好きなもの。
この二つは変える必要がないのだ。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃーい。」
母の声を背中に受けながら、ドアを開ける。
昨日はちょっと寒いかと思ったが、気候の変わりは読めないもので、またじわじわと内側から込み上げるような暑さを感じる。
私は、ずっと考えてる。
私の、変えたくないもの。
私は今まで、色々なものから目を背けてきた。
だからこうして、現実と相対するとき、何から手をつけていいのかわからなくなった。
私の演技ノートを、手に取ってみる。
いつからか途絶えてしまったが、あれには私の演技の改善点をいくつか記していた。
電車で運良く席に座れたので、一ページからパラパラと開いてみる。
基本的には、もう私ができることばかりで、滑舌の悪い文字や言葉、どれだけ息が続くかをまめに記入してあった。
特にそれが活発だったのが、君津と会ってから。
君津に演技を教えるために躍起になっていたのだろう。
君津の弱点、私の弱点を明確に記して、それの改善点を実践し、さらにそれのダメ出しを書いていた。
正直、それを見て驚いた。
私が、何かを努力した形跡が残っていたのか、ということに。
23ページ。そこにはこう書いてあった。
"私も、努力できるようになりたい"
恐らく、君津と何回か演技練習をした時に書いたもの。
私は子供の頃から、ひたむきに頑張って前を向こうとかのタイプじゃなかった。
ずっと、卑屈な人間だった。
それを肯定するための、なけなしの努力はした。
けど、それは塵にも敵わないほど軽いもので、簡単に吹き飛ばされてしまった。
もしかして、これ?
私の変えたくないものって。
でも、それは今じゃない。
新しい私の目標にするのは構わないが、決戦の日は今日なのだ。
今日、勝たねば終わってしまうのだ。
私が、変わるには。
大切なものを曲げずに変わるには…
「ドアが開きます。ご注意ください。」
機械的な声に、弾けるように肩を震わせる。
急いで電車を降りて、あとはいつもの通学路。
校門をくぐり、また、今日もいつも通りの学校が始まる。
「あっ、月乃お姉様〜!ごきげんよう!」
「ああ、おはよう。花音。」
教室に入った途端、彼女は満面の笑みで私を迎え入れてくれた。
その笑顔は、窓の外から見える太陽に照らされているせいか、私には眩しすぎる。
花音は、素直な子だ。
誰にも嘘をつかないし、へっぽこではあるが、ミスを隠したりせず、泣きついては学んで、また泣きついては学んでを繰り返す。
これは誰から見ても、努力と言えるんじゃないか。
では、私の理想は彼女か?
いや、私はこの子のようにはなれない。
それはいつもの現実逃避ではなく、ちゃんと考えた上での結論だ。
何でもかんでも、努力すれば近づけると思うのは傲慢だし、それができずに私の人生は苦労した。
自分の理想と可能な範囲。
それがクロスする奇跡的な場所にしか、私の居場所はない。
そして、その理想があまりにも可能な範囲と乖離してしまうのが、一番厄介だと知っていた。
「月乃お姉様。わたくし、今すっっっっっっごく!調子が良いのです!何故だかお分かりですか!」
放課後、ロッカーで荷物を出し入れしている私に、花音が気合の入った声で質問してくる。
確かに今日は、なんだか一日中嬉しそうだ。
その姿が愛おしく、ついつい頭を撫でてしまう。
それに花音は、「えへへ…」とまんざらでもなさそうな声で、私の愛撫を享受し、その尊さに胸がきゅっと締められる。
「何かいいことがあったんでしょ?朝早く起きれたとか、宿題がスムーズに終わったとか。」
「ふっふっふっ、わたくし、今日は8時10分起きで遅刻寸前!宿題もこの通り、手すらつけておりませんわ!」
「…それはそれで問題だけど…答えは?」
「それは…今日が君津お姉様と、月乃お姉様の晴れ舞台だからですの。宿題に手がつかなかったのも、昨日の夜眠れなかったのも、今日というこの日が待ち遠しくて仕方がなかったからですの。」
彼女のビー玉のようなキラキラとした目に、私が映る。
反射して見えた私の顔は、なんだか少し驚いてるように見えた。
その後、私の胸中の中にあるものを改める。
私は…なんで驚いてるの?
花音がこういうことを言う子だってのは、分かりきってるはずだ。
何も驚くことなんて、ないのに…
「わたくし、こう言っては良くない気持ちもあるのですが、やはり2年のお三方の演技が一番お気に入りなのです。劇に対する情熱や、並々ならぬ執念は、他の方には出せないものがあると思っておりますの。」
「あるのかな、私に執念なんて。やることがないから惰性的にやってる、その表現の方が適切だと思うけど。」
「…もう。月乃お姉様は、自分を卑下しなければ気が済まないのですか?もう少しご自分を客観視してみてほしいのです。演技を見るのも、役者の仕事。であれば、自らの立ち振る舞いを改めてみるのも、また演者の仕事なのでは?」
…花音は優しい。
私に、こう言っているのだ。
自らの誇れるところ、それが理解できなければ、私の理想には届かないと。
そもそも私は、自分の理想すら、形になっていないのかも知らない。
ふと、横に目をやる。
そこには、私のこの悩みをさらに難解にする人が立っていた。
「こんばんは。月乃ちゃん。花音ちゃん。今から部室に行くの?」
君津が髪を靡かせ、そこからほのかにラベンダーの香りがする。
佇まい、匂い、表情、仕草。
どれをとっても美しく、人間の完成系とも言えた。
「聞いてください!月乃お姉様ったら、先程から自分を卑下してばかりですの!」
「…もう、言ったよね、月乃ちゃん。肯定して前に進むって。約束破られたら、私、すっごく悲しむんだけど。」
「そうじゃない。ただ、いざ考えてみると、私の中に残した方がいいものと、切り捨てた方がいいものの区別がつかないだけ。」
そう言うと、二人とも困ったような顔をする。
ちらっと、花音が私を見て、「はあ…」とため息をつく。
…イラッ。
今度は頭をぐりぐりしてやった。
「何?言いたいことがあるならはっきり言って。」
「人の理想っていうのは、人それぞれ違うものだけど、私と君津ちゃんはとっても似てると思うの。
私達は、演劇をするのが好きだから。」
「…じゃあ聞くけど、あなたの理想って?」
「私は…私達は、誰かに注目されたいんだと思う。自分の努力によって作り上げたキャラを、誰かに届ける意思を持つ人こそが、演技を好む人だって思ってる。
自分の色々な一面を見せてこその演者。
隠して、変えてこその人間。
ほんとは単純。私も、実は理想は水月君じゃなかった。
見てほしい人としては一番でも、一番の理想は私自身。
私達は、理想の私達を演じることが、何にも変え難い夢、だと思ってる。」
人に、見られること。
確かに私は、最初は君津に、私のことを見て欲しかった。
君津は見てほしい相手。
その立ち振る舞いも参考になったり、リスペクトすることは多々あれど、確かにそっくりそのままそうなりたいわけじゃなかった。
いや、そうなれば見てもらえるという、あくまで過程の話で、ゴールではなかった。
「考えは、まとまりましたか?」
「…うん。もう迷いはない。でも、言わなきゃならないことがある。」
「だね。じゃあ行こっか。」
3人並んで、階段を足早に降りる。
つま先からリズム良く階段を降れば、ものの十数秒で部室のドアの前。
ドアを開ければ、部屋の中の空気が重く感じる。
鉄のドアノブが、汗でちょっと曇る。
そのせいで、私はどんな顔をしてるかを見ることができなかった。
これから人に見せる顔なのだから、少しは確認しておきたかったが、私の前に立つ人に、私を見る役目は託すことにした。
「…松尾。ちょっといい?」
水月が軽い相槌的な返事を返して、私達に向かい合う。
君津が、私の隣に立つ。
スカートの裾をギュッと握って、肩を震わせるほどの深い深呼吸。
ほんと、妬いちゃうな。
あなたのせいで、私達はめちゃくちゃ。
すれ違って、恨んで、諦めて、結局立ち向かうことになったら、時間が無くて。
あなたも同じはずなのに、既に私達と同じ段階にはいない。
藤色の紫が、雄々しく輝く。
あなたはそうやって、一人じゃないみたいな顔をする。
だったら、私達のすることは…
「私はね、水月君。君が覚えてないくらい昔に会ってから、ずっと君を追いかけてきたんだ。
途中から、何が何だかで見失ったこともあったけど、やっぱり私は、君に見てもらいたい。それが私の始まりだから。」
「俺も、外の世界に目を向けるのは、これが初めて。
二人という名の独りよがりだったから。
今までごめん。そして、期待してる。最澄君津の理想の演技。」
彼の目は、いつになく真剣で、見つめ合う二人は、王子様とお姫様。
二人なら、きっといいラブストーリーが綴れるだろうな。
そんな目をした君津は素敵で、やっぱり私に向けてほしいとも思うけど、それだけでは終わらない。
「松尾。私も、あなたや君津、桜も含めてみんなに言うよ。私は、誰よりもみんなに見てもらいたい。もう遠慮はしないし、逃げもしない。背けた背中は見せたくない。しっかりと、正面から見て。私の姿を。」
振り向けば、全員が私のことを見ている。
ああ、すごいな。
ワガママみたいな願いが、今、叶ってる。
期待に応えたい。
こんな感覚は久しぶりで、胸の中のモノが、指先を伝い、足にめぐり、動きたくってしょうがない。
見つけた。私の、変えないもの。
欲張りで、贅沢のような願い、その発現。
決めた。変えるもの。
私はもう、この目線から逃げない。
期待を背負うには、それだけの覚悟が必要なんだ。
「それじゃ、最終オーディション!
テーマは、地球最期の日〜!」
「地球最期…か。ねえ月乃ちゃん。ここで一回、死んでみるのもありかな?」
「…かもね。…君津、好きだったよ。」
「…私も、好きだったよ。」
「そんじゃ、いきまーす!よーい、スタート!」
――――――――――――
「さて…なんかあっという間だね。地球最期の日、なんて。」
「ほんとにね、隕石なんて実感ないし、案外終わりの時は怖くないのかも。」
二人が、床に座って空を眺める。
二人の声からは、緊迫した空気は感じられず、そういうものだ、というのを感じさせると共に、人生があっけなく終わること、既に終わりが近づいてることを表現していた。
「生きるって、結構酷だよね。頑張っても、怠けても、人って、1秒ごとに1秒寿命が縮んじゃうんだから。しかも、そうでなくとも、こんなダイナミックな終わり方もあるわけだし。」
「うん。本当に残酷。努力が報われるとは限らないとは言え、ここまで極端だと笑えてくる。やっぱり頑張るのって、不思議なこと。」
「くだらない…とかじゃないんだ?このタイミングで、何か努力した甲斐があったと思えることとかあったりするの?」
「いや、何も。私にとっての努力って、ただ、私が立派に生きたって、証拠が欲しいだけ。他の人に沢山、私の努力とその成果を伝えて、私自身に刻み込む。
その行為は、こうやって死んで無駄になるはずなのに、それのおかげか、今はこうやって、胸を張っていられるの。だから、不思議。」
肩がくっつくギリギリの距離。
地につけた手を小指だけ重ね合わせて、また、ゆっくりと空を見上げる。
静寂を息づかいなどで着彩し、無味無臭と言わせない。
綺麗な硝子自体はお飾りで、人はみな、その奥のものに着目する。
幻想的なまでの、想いが詰められた空白。
だが、もうすぐ終わらせないといけない。
どう決めるかは、もはや計算できるものじゃなかった。
「ねえ、月乃ちゃん。これからのこと、話していい?」
「これからって?もう終わりでしょ。」
「うん。私達は、一旦ここで終わり。でもいつか、生まれ変わってまた会った時に、スムーズに仲良くなりたいんだ。私は来世があったら、また月乃ちゃんと友達になりたい。」
二人の肩が触れ合う。
一度くっつけば、もう構うことはない。
二人の距離がゼロになって、体重を乗せ合う。
稲穂のように垂れ合う二人の頭がコツンと当たって、ゆっくり目を閉じる。
そろそろ終幕だ。
二人が目を開け、空を見上げる。
「ねえ、見えてる?」
「うん。ずっと前から。」
「ねえ、まだ見ていたい?」
「うん。でも、遠ざかって、遠のいてる。」
「ねえ、見ていてね。これからも。」
「…うん。ずっと見てる。これからも。」
あの日の夜と、同じ気持ちが湧き立ってくる。
出会いと別れ。
そしてまた、出会う。
そんな私達の馴れ初めは、こうやって、抱き合ったよね。
そうして、幕も、涙も、何もかもが降り立った。




