我慢するから…
今日から待ちに待った夏休みに入る。昨日から無造作に散らかしたバックを定位置に片して、部屋を掃除する。埃というのは不思議なもので、どこからともなく湧いて出てきては、あっという間に部屋の空気に溶けてしまう。それゆえ、部屋をきれいにしなければという考えがあると、どうしても無視できず、どうしても心にモヤがかかってしまう。
なぜこんなにも今日はソワソワとした気分になるのか。それはふゆが久しぶりに家に来たいと言っていたからである。夏休みの初日だというのに、俺の気分をうかうかとしたものにはさせてくれず、それもまた心地よいと思えてしまう。ある程度部屋を片付けて時計を見ると、秒針は午後2時53分を示していた。約束の時間は午後3時。ほんの少しの空き時間を、ここまで片付けた達成感に回していると、外の雲行きが怪しくなってくる。
「…やっべえな…」
外を見るや否や、曇り空は容赦なく豪雨に変わり、糸切れほどの隙間もないくらいに雨は間隔を空けずに降り注いで、静寂に包まれた部屋の雰囲気を破壊した。
電話を鳴らしながら傘を持って玄関に立つ。天気予報に無いこの大雨。いつ止むかもわからないのなら、早めに迎えに行ってしまうほうがいいだろう。そう思い着信画面を横目に靴を履いていると、不意に扉がガチャッと開く。
「ふゆ!そんなに濡れて…無理せず雨宿りしときゃいいのに…」
「…ふふ、ごめん。行けると思った。でも、結果オーライ。見れたから、その顔。」
ふゆの口角が上がって、びしょ濡れの姿とは対照的な晴れやかな笑顔を俺に見せる。雨の匂いに混じった香水が、一瞬で家の中に入り込み、無機質だった部屋が一気に彩るような感覚に陥る。タオルをパッととってふゆの髪を拭いていると、その匂いが鼻から脳に直接響いて、綺麗に片付けた部屋がとてつもなく広く感じる。なんとか優しく水を拭き取ると、ふゆの顔がかなり近くにあることに気づく。そこそこの頻度でこんなくらいに近づいたことはあるが、この部屋には二人しかいないという事実。そして、妙に色っぽく微笑む彼女が、俺の理性をゆっくり溶かす。胸が締め付けられる気分に耐えられなくなると、少し突き放すような声色で、シャワーを浴びてくることを勧める。ちょっとだけ不満そうな顔を浮かべた後、
「覗かないでね?」
と言いながらお風呂場に入って行った。お風呂場からはシャワーの音が規則正しく鳴り響き、少しして、シャワーを浴び終えたふゆはソファに座っていた俺の隣にゆっくり腰を下ろす。
「いいね、このリンス。素敵な匂い。」
ツヤツヤになった髪をゆっくりと撫で、外していたカーネーション模様のヘアピンを付け直す。
「…なんか、久しぶりな感覚だな。ふゆが家に来たときの雰囲気。」
「久しぶり。実際。来れてなかった。高校入ってから。」
中学の時は、ふゆはしょっちゅう家に来ていて、自分の両親とも顔馴染みであり、完全に家の人間のように溶け込んでいた。高校に入ってからは、環境の変化や時間の都合合わせが難しくなって、こうやって二人でのんびりする感覚も忘れていた。
ふゆが肩をちょっとぶつけて、「ねぇ。」と小さく呟く。
「桜、あんまり構ってくれない。私のこと。特に、最近は。」
ジリジリと体を密着させて、お互いの体温を分かち合える距離にまで近づく。ふゆの体は暖かくて、その体温の高さは、ふゆの不満に直結している気がした。
俺はふゆの頭を優しく撫でて、宥めるように言葉を紡ぐ。
「高校に入ってから、ちょっと友達作りに躍起になってて。ふゆを悲しませたのなら、そのお詫びとして、今はこうやって存分に甘えて欲しい。」
「…お詫びじゃない。そんなの。当たり前。くっつくくらい。」
頑張って絞り出した言い訳に彼女は納得の色を示さず、ちゃんと説明するように視線を尖らせる。そんな眼差しにまたゆっくりと言葉をかけていく。
「…中学の頃、距離感が近すぎて色々と問題になっちゃったから。ほら、同じ部活に入ってた先輩がふゆに恋しちゃって、部内の空気が悪くなったあれとか。」
「…迷惑だった?」
「そうじゃない。ただ、まだどんな人たちかわからない状態で、またあの調子を繰り返しちゃうと、後々取り返しがつかなくなりそうだから。ふゆって、自覚あるかは知らないけど、結構モテるんだよ?」
「…いるらしいよ。思わせぶりな態度だけ取ってる人。そんな私に対して。」
俺の服の裾をぎゅっと握りしめる。ふゆと俺は恋人同士ではない。それは俺のわがままでそうなっている。ふゆは誰から見ても特別で、中学のときにはいろんな人から嫉妬されたし、自分自身、ふゆの隣に立つにはまだ不適格だと思っている。だからふゆは待っていてくれている。俺が自分のことを認めれるようになり、俺から告白してきてくれるのを。
謝ることしかできない自分の非力さを痛感しながら、とは言え何も言わないのも良くないと思い口を開こうとすると、ふゆがゴホッゴホッと荒っぽい咳をし始める。視線はどこか虚ろになっていて、支えが効かなくなった体をダランとこちらに預けてくる。一言断ってふゆのおでこを触ると、大雨が祟ったことは明らかだった。
「ちょっとごめん。」
「…ふふ、まるでお姫様。」
ひょいとふゆの体を持ち上げて、自分のベットに寝かせる。ふゆの体は羽毛のように軽く、細身な体も相まってちゃんと栄養が取れてるのか不安になってくる。
ふゆが吐く息は異常なほど熱がこもっていて、彼女の瞳は必死に俺のことを捉えようとしていた。
「…ごめんね、せっかく来たのに…」
「大丈夫だって。幸い夏休みは始まったばっかなんだし、ゆっくり治して、また一緒にのんびりしよ。」
ふゆのことを愛撫して、ゆっくりと立ち上がる。確か冷蔵庫にフルーツゼリーがあったはず。気休め程度になればとそれを取り出しに行こうとすると、腕にちょんと触れられた感覚がする。見ると、ふゆが弱々しく俺の手を握り、潤んだ瞳で俺を見ていた。
「…ダメ、行かないで。」
「…泣かなくていいって。ちょっとフルーツゼリー取ってくるだけ。」
「…ダメ。離れたくない。」
体は弱々しくてもいつも活発で元気のあるふゆからは考えれないほど衰弱し切った顔をしていて、それは単に具合が悪いだけという感じはしなかった。椅子をベット付近に持ってきてそこに腰を下ろすと、ふゆは握る力をなんとか強めて口を開く。
「…私、嫌われてると思った。告白、断られたとき。いつもの調子でやっても、軽くあしらわれたとき。
…ほんとは、付き合いたくないんじゃないかって、私のこと、面倒に思われてるんじゃないかって…」
彼女がいつもしている倒置法のような喋り方ではなく、ただただ儚い不安を抱えた少女のような話し方に変わる。それはいつもからかってるメッキがぼろぼろと外れ、不安でしょうがない気持ちに抑えが効かなくなっていることの証明だった。
俺のせいだ。
自分が彼女をずっと待たせて、我慢させていたから、こんなことになってしまっていた。申し訳なさと、そんなにも自分を想っていてくれたことに情緒はぐちゃぐちゃになって、歯止めが効かなくなりそうになる。
それでも"この言葉"はまだ言えない。言ってしまったら、もう取り返しがつかないから。
「…こんなに我慢させてごめん。もう高校でも、言い訳せずにふゆともいっぱい関わる。ふゆにこんなに溜め込ませてたのはもう終わりにしたいから。」
「…嘘つき。私は好きなのに。桜のこと。言えないんでしょ?まだ。」
考えてることを的確に言い当てられ、体が動かなくなる。その様子を見て図星と気づいたふゆは更に不機嫌な顔を作り、それと同時にもぞもぞと布団の中で身をよじる。
「…大丈夫。出来るから。我慢。でも、その代わり…」
そこまで言うと、ふゆは言葉を区切って顔をうつ伏せになって見せてくれない。心配になって、椅子から身を乗り出すと、握っていた手を離し、俺の服を両手で掴む。
「…安心させて。私のこと。」
彼女の力はそれほど強くない。それも衰弱し切ったこの状態ではなおさら。だが俺の体は、まるで自分の意思かのように引っ張られ、ふゆの布団に連れ去られる。
「ふゆ…」
「しないで、口答え。仕返し。我慢してね?桜。」
ふゆとの間には何の壁も無く、唇はお互いの息を交換し合える程度の距離にあり、ふゆの熱のこもった吐息を直に浴びて、体全身にその熱が行き渡る。俺が近くにいることに安心すると、ふゆは無防備な寝顔を見せてスヤスヤと眠り始める。
…今更ながら、我慢がどれほど酷かを思い知る。彼女匂いが、息が、体温が。全ての感覚を限界まで誘惑し、どこか彼女の寝顔は勝ち誇っている。そんな俺は、結局我慢しきれずに彼女の唇に手を当てて、小さく呟く。
「…好きだよ。ふゆ。」
結局、俺もその後眠ってしまい、帰ってきた母さんに二人で寝ている写真を撮られてしまったのだった。




