第八章 願いを一つ
風鈴を外す日は九月の最初の日曜だった。
朝の境内には夏の残りと秋のはじまりが半分ずつ入っていた。蝉の声は弱く、代わりに草むらが鳴っている。手水舎の風鈴はもういくつか黙っていた。
「鳴らなくなったものから外す」
禰宜はそう言って箱を二つ並べた。一つは来年また使う風鈴。もう一つは送る風鈴。
同級生の女子も来ていて自分の三つを指で数えていた。
「ひとつ鳴らなくなってる。どれが叶ったのか分からないけど」
「英語じゃないの」
「でもテストまだなんだもん」
彼女は不満そうに言って笑った。
奈津は脚立に上がった。今年は掛ける方だけでなく、外す方もやらせてほしいと頼んだ。禰宜は何も言わなかった。
手前から順に黙った風鈴を鉤から抜いていく。抜いても、風鈴は鳴らない。中に何もなくなったというのは、こんなに静かなことなのかと思った。
四つ目の風鈴の前で、奈津は少し手を止めた。自分が何も入れなかった風鈴だった。鉤から抜いて、送る箱ではなく、来年の箱のほうに入れた。
最後に奥へ進んだ。
白い照明の下で一回り大きい鉄の風鈴が、一つだけ残っている。赤い錆と、剥げかけた神仏の輪郭。口には茶色い短冊。
奈津は両手で風鈴を包んで鉤から降ろした。
思っていたより重くて、腕に一瞬だけ力が入った。
短冊を外して封筒に入れた。滲んだ字は、やはり読めない。読むのをやめると、墨の影はただの汚れに見えた。この字を書きかけてやめた人の手の動きだけが、なぜか先に思い浮かんだ。
「それ、どうする」
禰宜が下から聞いた。
「掛けなおしても、いいですか」
「風鈴を外す日だぞ」
「外して、もう一度掛けます。今度は、私が」
禰宜は少し黙って、社務所に戻った。戻ってきたとき、手には帳面と筆があった。
「今年、あれを掛けたのは私だ」
禰宜はそう言って帳面を開いた。
「あの日まで待っても、もう来る人がいない。だから他と一緒に掛けた」
筆を帳面の横に置いて、禰宜は脚立の上の奈津を見上げた。
「掛けるなら決まりは同じだ。名前を記す」
「……はい」
「先に記す。逆にするなと言ったな」
三十七番の欄に奈津は自分の名を書いた。筆を使うのは下手で、最初の一画が太くなりすぎた。それでも、読める字になった。
奈津が見たかぎり、一度も名前の入ったことのない欄だった。それが、これで埋まった。
新しい短冊は水色を選んだ。字は書かなかった。書かなくていいのだと教わっている。
風鈴を両手で持つ。
鉄の肌は、両手の中で少しずつ温まっていった。
願いを一つ。
奈津の中で願いはすぐに形になった。形になってしまったものは、叶わないと分かっているものだった。一度でいいから、もう一度だけ会いたい。台所の椅子に座って、前と同じことを同じ順で話してほしい。
畳みたくなった。手が勝手に風鈴を鉤に近づけようとした。
奈津はその手を一度止めた。
声には出さない、口の中でも言わない。頭の中で、一回だけ、途中でやめずに、最後まで言った。
言い終わっても、何も壊れなかった。
体の中が少し軽くなって、代わりに風鈴の重さが手に戻ってきた。
風鈴を鉤に掛けて、指を離す。
風はなかった。
ちん、と鳴った。
一度ではない。風鈴は揺れが止まってからも鳴り続けていた。他の風鈴はすでに箱の中で、境内にはその音しかなく、手水舎の水面に天井の格子が真っすぐ映っていた。
禰宜は帳面を閉じて一行だけ増やした所を指で押さえた。
「今年は三十七だ」
奈津はうなずいて鳴っている風鈴を見上げた。
願いは叶わない。この風鈴はずっと鳴り続けるだろう。
それでも、境内を出るときには背中の音を一度も振り返らなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
口にできない願いは、なかったことと同じなのか。そんな問いから生まれた物語です。
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