8.金の卵を産む鶏
王都の住民が寝静まった深夜、ジョバンニ・ラットは足音を殺しながら路地を進んでいた。目指す先は、王都の片隅にあるリチャード・パウエルの事務所だった。目的はただ一つ。リチャードが手掛けている新作演劇の脚本を盗み出すことだった。
ここまで追い詰められるとは……数カ月前のジョバンニは思いもしなかった。
先月、イザベラが事務所を去った。男女としての関係が冷え込むと同時に、仕事上の関係も自然と終わりを迎えた。互いに未練を口にすることもなく、あっさりとした別れだった。去り際のイザベラが軽蔑にも似た冷ややかな目をしていたことを、ジョバンニは思い出したくなかった。
新しい助手を何人か雇い入れた。だが、いずれも大劇場に耐えうるだけの脚本を書ける器ではなかった。追い詰められたジョバンニは、藁にもすがる思いで、かつて助手であったソフィー・ワイスとマリア・グランデに復職を乞う手紙を送った。だが、どちらからも返事は届かなかった。あらゆる手を尽くしても、ジョバンニの代わりに脚本を書いてくれる才能は見つからなかった。
そこへ追い打ちをかけるように、『再び君と踊る日まで』の大成功が世間を席巻した。小説家リチャード・パウエルの劇作家への転身は、王都中の話題をさらい、大劇場での上演まで決まったという。新進気鋭の才能が現れれば、旧来の劇作家は容赦なく見放される。それがこの世界の常だった。ここ最近評判の芳しくないジョバンニにとって、リチャードの登場は、自身の地位を根底から揺るがす脅威に他ならなかった。
自分では脚本の一行も書けず、才能ある助手を新たに見出すこともできない。もはやジョバンニに残された手段は、リチャードの原稿を奪い取ることしかなかった。
盗作――それが劇作家として決して許されぬ行為であることは、ジョバンニはよく理解していた。だが、リチャードよりも先にその物語を劇場に届けさえすれば、世間はそれをジョバンニの作品だと信じる。もう、なりふり構っている余裕はなかった。
窓の隙間から錠を外し、ジョバンニは事務所に忍び込んだ。月明かりを頼りに、書棚と机を漁った。やがて、作業机の上に置かれた一通の封筒が目に入った。表には『最後の舞踏会は夜明けまで』と記されていた。
これだ。ジョバンニは息を殺して封筒を開き、中の原稿を取り出した。文字を目にした瞬間、大きく目を見開いた。
――この筆跡は!
見間違えるはずがなかった。何度も、何度も、自分の作品だと偽って劇場に提出してきた、マリア・グランデの筆跡だった。少し丸みを帯びた、力強い、独特の筆致。長年その筆跡を見てきたジョバンニの目に、誤りようがなかった。
「……リチャードは、私からマリアを奪ったのか?」
原稿を握る手が、怒りで小刻みに震えた。ジョバンニ自身はリチャード・パウエルと面識がなかった。だが、ある女性の劇場関係者が、頬を赤らめながら「まるで俳優のような方でした」と語っていたのを思い出した。金髪でさらさらとした髪、長身、人懐っこい笑顔。優れた容姿と人気小説家の肩書を武器に、リチャードはマリアに近づき、取り入ったに違いない。
つまり、リチャードもまた、ジョバンニと同じ人種なのだ。女の才能を利用して名声を築く男。そう考えると、リチャードへの怒りが少しだけ和らいだ。
マリアが書いた『再び君と踊る日まで』によって、リチャードは劇作家としての名声を手にした。マリアはまさに、金の卵を産む鶏だった。それを、ジョバンニは手放し、リチャードが手にした。イザベラの奇抜さに目を眩まされ、飽きられることを恐れるあまり、才能のあるマリアを切り捨てたのだ。
ジョバンニは原稿を握りしめたまま、深く息を吐き出した。
冷静になれば、答えは明らかだった。たとえこの原稿を盗み出し、自分の名で発表したところで、根本的な問題は何一つ解決しない。次の物語を、ジョバンニが生み出すことはできないのだから。
本当に取り戻さなければならないのは、この原稿ではない。マリア・グランデだった。マリアを引き戻さない限り、リチャードは今後も次々と傑作を世に送り出し、ジョバンニの地位を脅かし続けるだろう。
ジョバンニは震える手で原稿を丁寧に畳み、持参した布袋の中に忍ばせた。窓に歩み寄り、月明かりに照らされた王都の街並みを眺めた。
布袋を肩にかけ、窓から外へ降りた。夜露に濡れた石畳を踏みしめながら、足早にリチャードの事務所を後にした。
まずはこの原稿を、ジョバンニの名前で世に出す。だが、それだけでは足りない。マリアの心を、もう一度自分のもとへ引き寄せなければならない。どんな手を使っても。




