9.また誰かのために
マリアが酒場の開店準備をしていると、扉が静かに開いた。そこには、ジョバンニ・ラットが立っていた。
数カ月ぶりに見るその顔は、記憶にあるよりもやつれていた。眼差しは、以前と変わらぬ熱を帯びていた。ジョバンニはカウンターのマリアへ歩み寄ると、囁くように言った。
「戻ってきてくれないか。君を愛している」
マリアは苦笑いした。かつてマリアの胸を震わせた言葉であったが、今は空虚な文字の羅列にしか聞こえなかった。この言葉が、才能を手放させないための道具だったことを、マリアは知っていた。
「お生憎さま。お付き合いしている人がいるので」
マリアは首を左右に振った。それ以上、何を言うつもりもなかった。
ジョバンニはしばらくマリアを見つめていたが、やがてため息をついた。そして、踵を返し、「また来るよ」と店を出ていった。ジョバンニの顔は笑っていた。
その背中を見送りながら、「もう来なくていいわよ」とマリアは深く息を吐き出した。
**
その夜、すっかり常連客となったエリックと他愛のない話をしていると、勢いよく扉が開いた。クララが血相を変えて飛び込んできた。
「大変です! 盗まれた『最後の舞踏会は夜明けまで』の原稿が、フェレッティ劇場に持ち込まれたそうです!」
原稿が盗まれた翌日から、クララは王都中の劇場を駆けずり回り、盗難の経緯と物語のあらすじ、そして原稿を見分けるための特徴を伝えて回っていた。その甲斐あって、盗難から三日後、フェレッティ劇場から連絡が入った。原稿を持ち込んだのは、ジョバンニだった。
持ち込まれた原稿が本物かどうかを確かめるため、マリアはフェレッティ劇場へと向かうことにした。「ジョバンニが暴れたら危ないからね」とエリックも心配そうに同行してくれた。
**
マリアたちが劇場の事務室で待っていると、劇場関係者に伴われてジョバンニが姿を現した。ジョバンニの顔は青白く、目だけがぎらついていた。
「この原稿です」
担当者が机の上に紙の束を置いた。マリアは落ち着いた手つきでページをめくった。見覚えのある文字、見覚えのある構成。間違いなく、マリアが書いた原稿だった。
「カッシーニ劇場からの依頼で、私がリチャード・パウエル名義で書いた原稿です」
マリアが静かに告げると、ジョバンニは顔を歪めた。
「違う! これは俺が書いた脚本だ! 証拠はあるのか?」
「筆跡はもちろんですが……」
マリアは一呼吸置いてから続けた。
「私が書いた原稿には、ちょっとした悪戯がしてあります。この原稿の二十七頁、各行の一文字目だけを読んでいただけますか」
差し出された頁を、ジョバンニは震える指でなぞった。
「マ……リ……ア……グ……ラ……ンデ……?」
目を見開いたジョバンニに、「他にも」とマリアは続けた。
「この劇場で以前上演された『風薫るエスメラの庭』の三十三頁には【マリア、ジョバンニ】と隠してあります。ご存知でしたか?」
マリアが肩をすくめると、ジョバンニの膝から力が抜けた。その場に崩れ落ち、床に手をついたまま動かなくなった。かつて自分の名で世に送り出してきた作品のすべてに、こんな形でマリアの名前が刻まれていたとは、想像だにしていなかったのだろう。警備員に両脇を支えられ、ジョバンニは声もなく部屋を連れ出されていった。
「それでは、この原稿はリチャード・パウエル様にお返しいたします」
担当者はそう言うと、原稿をエリックの手に渡した。マリアは思わず目を見開いた。
「次はぜひ、フェレッティ劇場での上演もご検討いただければと」
担当者が目配せすると、エリックは頭をかきながら、「マリアと相談します」と苦笑いを浮かべた。そのやり取りを見つめながら、マリアは何も言えず立ち尽くしていた。
**
劇場を後にしたマリアとエリックは、夕暮れの通りを歩いていた。
「なぜ、あなたがリチャード・パウエルだって、教えてくれなかったの?」
マリアが問いかけると、エリックは決まり悪そうに笑った。
「そのうち、気づくと思ってたんだ」
「しがない物書き……じゃなかったかしら?」
マリアが目を細めると、エリックは頭をかきながら視線をそらした。
「これからは、僕たち二人がリチャード・パウエルだ」
二人で一つの名前を使い、物語を紡いでいく――そんな未来を、エリックは思い描いているようだった。
「考えておくわ」
マリアは頬を緩めた。
すぐには頷けなかったが、拒む気もなかった。また、誰かのために脚本を書くのも悪くないかもしれない。
並んで歩く夕暮れの通りに、二人の長い影が伸びていた。
―了―
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆で評価していただけると大変励みになります!




