6.劇作家リチャード・パウエル
エリックと演劇を観た翌日、マリアはリサを訪ね、脚本を書くことを告げた。
「本当に、やってくれるのね?」
リサは声を弾ませて両手を握りしめてきた。マリアは頷いてから、二つの条件を口にした。
「脚本は偽名で書くこと。それから、現場指導は、私以外の誰かにお願いしたいの」
マリアが再び劇作家として動いていることを、ジョバンニに知られたくなかった。ましてや稽古場や劇場で偶然顔を合わせるようなことがあれば、目も当てられない。ジョバンニへの想いを完全に断ち切れていないからこそ、距離を置きたかった。
リサは考え込むように顎に手を当てたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「それなら、リチャード・パウエル名義で書けばいいわ」
「リチャード・パウエル……あの小説家の?」
マリアは目を丸くした。
「実はね、もうリチャードには話を通してあるの」
リサは声を弾ませた。人気作家であるリチャードの脚本が発表されれば、大きな話題になり、集客も見込める。現場での指導については劇場付きの演劇監督が担当するので、マリアが顔を出す必要はない。さらに、脚本の使用料は全額マリアに支払われる契約にするという。
「ただし、リチャード・パウエルの作品として世に出すのだから、本人が内容を確認するのが条件よ。修正や差し戻しがあるかもしれないから、そのつもりでね」とリサは付け加えた。
「リチャードにとって、それのどこに利点があるの?」
マリアが疑問を口にすると、リサは弾むように答えた。
「小説家としての幅を広げたいんですって。舞台の脚本にも興味があったみたいで、二つ返事で引き受けてくれたわ。それでいいわよね?」
マリアは戸惑いながらも、頷いた。それがジョバンニに気づかれない最善の方法だろう。名前を借りるだけとはいえ、人気作家の名で自分の作品が世に出る。不思議な感覚だった。
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マリアは早速、脚本の制作に取りかかった。
これまでジョバンニの事務所で書いた脚本は、悲劇が多かった。涙を誘う筋書きは観客の評価が高い、と信じていたからだ。だが今回は、幸福な結末を迎える男女の物語を書くつもりだった。作風を変えれば、万が一ジョバンニの目に触れたとしても気づかれにくくなる。それとは別に、マリアは新しい気持ちで演劇と向き合いたかった。事務所を辞めて三カ月、マリアは新境地に挑戦したかった。
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物語の主人公は、上流階級への憧れを抱く雑貨屋の娘、ミシェル。ミシェルは忍び込んだ舞踏会で、ウィルム男爵家の次男ピエールと出会う。優雅なワルツを踊るうちに、二人は恋に落ちる。だがミシェルは身分の違いを恐れ、自分を貴族の令嬢だと偽ってしまう。
人目を忍んで逢瀬を重ねる二人だったが、やがて男爵家の家人に目撃され、ピエールの父、ウィルム男爵の耳に入る。男爵は家人に調査を命じ、ミシェルの正体が雑貨屋の娘であることを突き止めた。
家名を守り、水面下で進めている子爵家との縁談を守るため、男爵はミシェルのもとを訪れ、息子と別れてほしいと懇願した。ピエールの将来を思ったミシェルは、彼に何も告げぬまま静かに町を去った。
事実を知ったピエールは、ミシェルを探して町中を、そして近隣の村々を駆け巡った。そしてついに、崖崩れに巻き込まれ昏睡状態に陥っていたミシェルを、小さな村の外れで見つけ出した。ピエールは財産を惜しみなく投じ、名医を呼び寄せてミシェルの治療にあたらせた。長い眠りから目を覚ましたミシェルの目の前には、涙を流しながら見守るピエールの姿があった――。
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書き上げた原稿を何度も読み返し、マリアは題名を『再び君と踊る日まで』にした。悲劇の余韻ではなく、再会の喜びで幕を引く物語。これまで自分が手がけてきた作品とは違う、温かな余韻を狙った脚本だった。
完成した脚本を、リチャードの事務所に持参すると、本人は不在だった。マリアは彼の助手だというクララに原稿を渡した。
翌日、緊張しながら返答を待っていると、修正案が届けられた。
内容を確認したマリアは、安堵の息をついた。リチャードからの指摘は、誤解を招きかねない台詞の言い回しをいくつか整えた程度で、物語の骨格や展開にはほとんど手が加えられていなかった。むしろ、細部への配慮が行き届いた丁寧な修正案だった。
「これなら」
マリアはすぐに了承の返事を書き、クララに渡した。修正内容を反映させた最終稿は、その日のうちにクララの手によってリサの出演する劇場へと届けられた。
外は夕暮れに染まっていた。マリアは久しぶりに、清々しい達成感に包まれていた。この物語が舞台の上でどんな命を吹き込まれるのか、想像するだけで胸が高鳴った。
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