5.しがない物書き
「マリア? マリア・グランデなのか?」
リサが酒場に来たその夜、扉を開けて入ってきた客の一人が、カウンターに歩いてきた。マリアは顔を上げ、その男を見た。金髪で、背の高い、見覚えのあるようなないような若い男だった。
「えぇっと、どちらさまでしたか?」
戸惑うマリアに、男は苦笑いを浮かべた。
「エリック・クラークだよ。忘れられちゃったかな」
その名を聞いて、マリアの記憶がようやく繋がった。演劇学校時代の同期だ。いつも隅の方で目立たなかった青年。目の前のエリックはすっかり大人びていた。
「エリック! ごめんなさい、すぐに気づかなくて」
懐かしさに声が弾んだ。マリアはカウンターから身を乗り出し、近況を尋ねた。
「しがない物書きをしているよ」
エリックは首をすくめて笑った。
演劇学校を出た後、俳優の道を目指したが、いかんせん身長が高すぎた。舞台俳優が身長差を気にして、共演を敬遠されることが多かったのだという。結局、俳優の夢は諦め、物書きとして生計を立てているそうだ。
「君はどうしていたの?」
「劇作家の助手をしていたの。少し前に、事務所を辞めたけれど」
マリアは詳しい事情までは語らなかった。エリックもそれ以上は詮索せず、代わりに一枚の紙をテーブルの上に滑らせた。
「知人からこれをもらったんだ。次の休み、予定がなければ一緒にどうかな?」
それは、王都の大劇場で上演されている演劇の入場券だった。マリアはしばらくその紙を見つめた。演劇の世界から距離を置いて三カ月、久しぶりに舞台を観るのも悪くないかもしれない。気分転換にはちょうどよかった。
「いいわよ」
マリアは声を弾ませた。
**
久しぶりに足を踏み入れた劇場は、まるで別世界のようだった。仕事で通っていた頃は、天井の装飾も、シャンデリアの輝きも、観客たちの華やかな衣装も、目に留める余裕がなかった。だが今日は、マリアは純粋な一人の観客としてそこにいた。
開演を待ちわびてそわそわと落ち着かない婦人たち、贔屓の俳優の話に花を咲かせる紳士たち。その光景を眺めながら、マリアは初めて劇場を訪れた日のことを思い出した。ジョバンニの斬新な演出に心を奪われ、弟子入りを決意したあの日を。
彼の脚本ではなかったのだけれど。
エリックと合流して観客席に腰を下ろすと、すぐに幕が上がった。
その舞台は、敵対する二つの家に生まれた男女の悲劇だった。互いの家から逃れ、二人きりで生きていくことを誓い合う若い恋人たち。しかし追手に見つかり、無理やり引き離される。女を取り戻そうと屋敷に忍び込んだ男は、揉み合いの末に女の弟を手にかけてしまう。殺人者として追われる身となった男は、絶望のうちに息絶える――。
男の最期が近づくにつれ、観客席のあちこちからすすり泣く声が漏れ始めた。周囲を見渡せば、多くの観客がハンカチを目元に当てていた。舞台としては、十分に成功していると言えるだろう。
だが、マリアは素直に感動することができなかった。
男女が最初に出会う場所、逃避行の目的地の選び方、屋敷に忍び込んで女の弟と揉み合う場面の見せ方――もっと効果的な構成があるはずだ。
マリアは頭の中で、効果的な場面に組み替えた。この台詞はこう変えたほうがいい。この場面はもっと早い段階で観客に不安を植え付けるべきだ。気づけば、マリアは舞台を鑑賞しながら、脳内で脚本を書き直していた。
三カ月ぶりの、その感覚。忘れていた演劇への熱が、激しく蘇ってきた。
**
上演が終わり、マリアとエリックは劇場近くのカフェに入った。
「久しぶりの演劇はどうだった?」
エリックが尋ねると、マリアはテーブルの一点を見つめながら、「まずまずね」と答えた。だがそう言った直後、堰を切ったように語り始めた。
あの場面の構成の甘さ、あの伏線の使い方の惜しさ、こうすればもっと観客を引き込めたはずだという具体的な改善案。マリアは溢れ出す言葉を止められなかった。
エリックは驚いた顔をしながらも、楽しそうにマリアの話に耳を傾けていた。
「マリアは本当に演劇が好きなんだね。もう一度、脚本を書いてみたら?」
一通り話し終えたマリアに、エリックは微笑んだ。
マリアの脳裏にリサの顔が浮かんだ。三カ月後の小劇場公演、主役を演じるリサからの脚本の依頼。あのとき即答を避けたが、答えはもう出ていた。
さっき観た舞台よりも、もっと良いものが書ける自信があった。偽名を使えば、ジョバンニに知られる心配もない。あの事務所で過ごした日々への未練も、裏切られた痛みも、まだ完全に消えたわけではない。それでも、演劇への情熱が激しくなっていくのを、マリアははっきりと自覚した。
「そうね」
マリアは頬を緩めた。
カフェの外では、通行人が夜道を行き交っていた。その光景を眺めながら、マリアは新しい脚本の構成を思い浮かべていた。




