4.脚本の依頼
ジョバンニの事務所を辞めて三カ月が経った。
マリアは実家の酒場を手伝いながら、静かな日々を送っていた。祖父の代から続く、常連客で賑わう小さな酒場だ。カウンターに立つマリアは、舞台女優にも劣らぬ容姿だと評判で、店にはマリア目当ての客も少なくなかった。酔った客に絡まれることもあったが、それでもマリアは、演劇の世界から離れられて良かったと思っていた。
しばらく原稿を書いていなかった。締め切りはないから、劇場の担当者から催促される心配はない。
夜、店を閉めたあと、静かな部屋で眠りについた。ベッドの中で台詞を練りなおす必要はない。夢の中でいい案が浮かんできて、ベッドから飛び起きて書き留める必要もない。緊張から解放されて、マリアはぐっすりと眠れるようになっていた。
ある日の夕方、開店前の準備をしていたマリアのもとに、一人の女が訪ねてきた。
「マリア? やっぱりあなただったのね」
振り返ると、そこに立っていたのはリサ・ミルズだった。マリアが女優を志していた頃、同じ演劇学校に通っていた。あの頃から存在感を放っていたリサは、今では舞台女優として着実に名を上げていた。
「久しぶりね、リサ」
マリアは戸惑いながらも、懐かしさに頬を緩めた。マリアはカウンター席にリサを案内し、昔話に花を咲かせた。
「覚えているかしら? あなたが書いた脚本の舞台に、私が端役で出たときのこと」
リサは目を細めて言った。ジョバンニの名で出されたものだったから、リサはマリアが書いたことを知らないと思っていた。脚本を読んだリサはマリアの筆跡であることに気付いたそうだ。
あの舞台にリサが出演したとき、マリアは自分のことのように誇らしかった。
「あの舞台、忘れられないわ。私が女優としてやっていけるって、初めて思えた舞台だった」
リサの目には、当時の熱がまだ宿っているようだった。
ひとしきり思い出話が終わると、リサは口元を引き締めた。
「ねえ、マリア。あなたが事務所を辞めたこと、劇場関係者はみんな知っているわ。それに、あなたのことをみんな認めているのよ」
「私のこと、って?」
「マリアが脚本を書いていたこと、イザベラの脚本を手直ししていたこと。みんな薄々気づいていたのよ。あなたが辞めてから、ジョバンニ先生の舞台、評判がすっかり落ちたわ」
マリアは黙って耳を傾けた。
イザベラの脚本は確かに独創的だったが、単調な展開が続きがちで、途中で観客が飽きてしまう。マリアが想像したとおりの評判が立っていた。かつては、イザベラの欠点をマリアが手直しし、観客を最後まで惹きつける仕掛けを施していた。マリアの手が入らなくなった舞台は、観客の期待する水準に届いていなかった。
「三カ月後、私、小劇場の舞台に出るの。主役よ。この舞台を成功させて、大劇場での主役の座を掴みたい。そのためには、どうしても観客を惹きつける脚本が要るの。マリア、あなたに書いてほしいのよ」
身を乗り出すリサに、マリアは愛想笑いを浮かべた。
「私に?」
「あなたの脚本なら、絶対に成功する。私、確信しているの」
リサの目は真剣だった。マリアの胸の奥で、忘れかけていた何かが疼いた。物語を紡ぐ喜び、観客を惹きつける喜び。それは実家の酒場では決して得られないものだった。
だが、躊躇いもあった。事務所を辞めてまだ間もない。何より、かつて愛したジョバンニが今も苦しんでいる。そして、マリアの書いた脚本はジョバンニの仕事を奪うだろう。どうしてもジョバンニを憎みきれなかった。
「少し、考えさせてほしいのだけれど」
マリアは即答を避けた。リサはその返答を予想していたのか、静かに頷いた。
「ジョバンニ先生のことが気になるなら、偽名を使えばいいわ。男性の名前にすれば、誰もあなただとは気づかない。たとえば、リチャード・パウエルのような名前、どうかしら?」
その名を聞いて、マリアは思わず苦笑した。
「リサ、その名前は使えないわ」
「どうして?」
「実在する小説家よ。女性読者に絶大な人気がある小説家」
以前、演劇関係者の女性がその名を口にしたときのことを、マリアは思い出した。
「金髪のさらさらした髪で、とても背が高くて、笑顔が素敵な人でした」と、彼女は頬を染めていた。彼女の仕草には、リチャード・パウエルに対する好意、憧れが滲んでいた。有名小説家の名前を、無断で借りるわけにはいかない。
「そうだったわね。まあ、名前はまた考えましょう。とにかく、返事は急がないから。じっくり考えて」
リサは肩をすくめて笑った。
リサは連絡先をテーブルの上に置くと、店から出ていった。夕陽が差し込む酒場で、リサが見えなくなるまで、マリアはその場に立ち尽くしていた。
カウンターの向こうの窓から、茜色の空が見えた。舞台の熱気、拍手の音、観客の涙――忘れていた感覚が、頭の中に蘇った。
そして、ジョバンニに囁かれた言葉、裏切られた痛みも思い出した。もう一度あの世界に足を踏み入れることが、果たして正しいことなのか? マリアには答えが出せなかった。




