2.新しい助手
イザベラ・レオナルディがジョバンニ・ラットの事務所を訪ねてきたのは、とても暑い日だった。
「弟子にしてください!」
事務所の入口に立った若い娘は、深々と頭を下げた。
マリアは書類を整理する手を止め、その様子を眺めていた。数年前の自分を見ているようだった。
イザベラは半年前に観た演劇の話をした。斬新な構成、観客の予想を裏切る展開、幕が下りたときの身震いするような感動――それはマリアが夜を徹して書き上げた脚本だった。
世に出ているのはジョバンニ・ラットの名前だけだ。もちろん、イザベラはそのことを知らない。
「あの脚本を書いた、あなたの弟子になりたいんです!」
その言葉に、マリアは思わず頬がゆるんだ。自分の作品が、こうして次の才能を呼び寄せた。それだけで胸が満たされた。
ジョバンニはイザベラを助手として迎えた。
イザベラは呑み込みが早かった。台詞の間合い、場面転換の技術、観客の心を掴む構成。マリアが三年かけて身につけた技術を、イザベラはたった一年で吸収した。
ジョバンニもイザベラの才能を惜しみなく褒めた。その称賛の言葉を聞く度に、マリアの胸に小さな棘が刺さるようだった。
マリアはジョバンニに、イザベラを褒めるのを止めるようには言わなかった。マリアも同じようにしてジョバンニに育てられたのだから。
一年半が過ぎた頃、ジョバンニはイザベラに新しい舞台の脚本を書かせた。事務所の会議室でジョバンニとイザベラが並んで台本を読み合わせる姿を、マリアは離れた場所から眺めた。
「あの娘、ジョバンニ先生と寝たらしいわよ」
ある日、古参の助手がマリアの耳元で囁いた。マリアは苦笑いして取り合わなかった。そんな下世話な噂を信じるほど、愚かではない。ジョバンニを信じていた。
だが、その頃からジョバンニがマリアの部屋に泊まる回数は目に見えて減った。以前は週に四回、マリアの部屋の扉を叩いていた。それが週に三回になり、二回になった。
「最近、忙しいのですか?」
マリアが尋ねると、ジョバンニは苦笑いした。
「娘の勉強を見てやらないといけなくてね。もう受験も近いから」
マリアは疑いを持たなかった。ジョバンニは良い父親だと、むしろ好ましく思った。
ジョバンニの嘘に気づいたのは、一カ月後のことだった。
その夜もジョバンニは来なかった。もう一週間、ジョバンニは家に来ていなかった。
マリアは冷めた紅茶を飲みながら、机に向かっていた。だが、どうしても筆が進まなかった。羽根ペンを握りしめる手に力が入り、呼吸が荒くなった。
気づけば外套を羽織って、ジョバンニの家へ向かって歩いていた。
扉を叩くと、出てきたのはジョバンニの妻だった。
「脚本の修正で興行主から急な連絡がありまして」
マリアはとっさに訪問理由をでっち上げた。
「主人は今日、事務所に泊まると申しておりました」
妻は礼儀正しい微笑みを浮かべた。
その声の背後、玄関の奥の居間に、マリアは見知らぬ若い男の姿を見た。男はソファに座り、心配そうな眼差しでこちらを見ていた。その男の視線は、妻と単なる知人以上の親密さがあった。
マリアは礼を言って踵を返した。
ジョバンニの家庭がとうに壊れていたことは知っていた。妻にも夫以外の男がいた。それならば、ジョバンニが「事務所に泊まる」と嘘をつく理由は何なのか。
マリアの足はイザベラの住む借家へと向かった。
灯りの点った窓の下に立ち、マリアは息を殺した。カーテンの隙間から、部屋の中が見えた。
ジョバンニがいた。イザベラの肩を抱き、その耳元に顔を寄せて囁いていた。
「君を愛している」
ジョバンニの言葉は、マリアの耳に届いた。マリアだけに向けられていたはずの、あの声で。
マリアはその場に立ち尽くした。冬の夜風が頬を切るように冷たかった。町の景色が色あせて見えた。膝からその場に崩れ落ちそうになるのを、電柱に手をついて堪えた。
その日以来、ジョバンニはマリアの家に来なくなった。ジョバンニはイザベラの借家に入り浸るようになり、次の公演の脚本もイザベラが手掛けることになった。事務所にいても、ジョバンニがマリアを呼ぶことはなくなった。
マリアはようやく理解した。
「君を愛している」は愛の言葉ではなかった。それはマリアの才能を手放さないための、ジョバンニの周到な戦略だった。愛されていると信じ込ませることで、マリアは名前も出ないまま、ただジョバンニのために書き続けた。そして今、その役割はイザベラに引き継がれようとしていた。おそらくイザベラもまた、ジョバンニの「君を愛している」を信じて、書くのだろう。
騙された自分が愚かだった。怒りよりも、悔しさよりも、諦めのほうが大きかった。
年が明けて間もない、誰もいない早朝の事務所。マリアはジョバンニの机の上に、一枚の便箋を置いた。長々とした恨み言は書かなかった。ただ「お世話になりました」とだけ記した。
マリアは私物を入れた鞄を手に、事務所の扉を静かに閉めた。外は雪が降っていた。歩き出したマリアは、一度も振り返らなかった。
とにかく、演劇から離れたかった。
マリアは借家を引き払って、実家に戻ることにした。




