1.劇作家と助手
二十歳の春の日、マリア・グランデは初めてジョバンニ・ラットの舞台を観た。
女優を目指して演劇学校に通っていたマリアは、勉強のために足を運んだ小劇場で、その舞台に釘付けになった。現在と過去が同時並行する斬新な物語、影絵と生身の役者を交錯させる演出、マリアが見たことのない世界がそこにはあった。幕が下りたとき、マリアの手は汗ばみ、心臓の鼓動が激しくなった。
――この人の弟子になりたい!
その衝動は、女優への憧れよりも強烈だった。もっとも、マリアに打算がなかったわけではない。女優として舞台に立てる期間は短い。容姿が衰えれば役はなくなり、若い才能に取って代わられる。だが劇作家は違う。年齢を重ねるほどに物語は深みを増し、長く舞台の中心にいられる。
マリアは楽屋口でジョバンニを待ち伏せした。原稿用紙の束を突きつけて頭を下げた。断られても、マリアは別の日にジョバンニを待ち伏せした。
三度目に待ち伏せしたとき、ついにジョバンニは根負けしてマリアを助手として雇った。
それから三年、マリアは事務所の掃除や雑用をしながら、脚本の書き方、場面転換の流れ、観客の心を掴む技法を学んだ。ジョバンニは厳しかったが、いい脚本が書けると、惜しみなく褒めてくれた。マリアはその一言のために、夜を徹して脚本を書き続けた。
転機が訪れたのは、マリアがジョバンニの助手になって三年目の冬だった。
次の公演の稽古が始まる時期になっても、ジョバンニは一行も書けずにいた。机に向かって数行書いては原稿用紙を丸めた。灰皿には吸い殻の山ができていた。契約金を受取っているのに、脚本が書けない。興行主からの督促は日増しに厳しくなった。後がなかった。
「……もう、間に合わない」
深夜の事務所で、こめかみに手を当てたジョバンニが呟いた。その背中を見て、マリアは鞄の中から原稿を取り出した。誰にも見せるつもりのなかった、自己満足のために書いた脚本だった。
「先生。もしよろしければ、これを」
ジョバンニは怪訝な顔で受け取り、読み始めた。一枚、また一枚とページをめくる指の音だけが事務所に響いた。読み終えたとき、ジョバンニの目に輝きが戻っていた。
「……よく出来ている。俺にはない発想だ」
その言葉を聞いて、マリアの三年間が報われた。
「これを、先生の作品として使ってください」
マリアは声を弾ませた。自分の名前が世に出ないことなど、気にしなかった。自分の書いた脚本が舞台になる。それだけで十分だった。
ジョバンニ・ラットの作品として発表された演劇は、大成功を収めた。批評家は「巨匠ジョバンニの新境地」と絶賛し、劇場は連日満席になった。マリアは舞台袖から観客席を眺めながら涙をこらえた。誰もマリアが書いた演劇だと知らない。それでも、自分の脚本が観客の心を揺さぶったことが嬉しかった。
それから、マリアは書き溜めた脚本をジョバンニに渡すようになった。ジョバンニはそれを丹念に読み、手直しすべき点を指摘し、完成した脚本を自らの作品として世に送り出した。マリアの脚本による演劇は、成功を重ねた。ジョバンニ・ラットの名は、かつての輝きを取り戻した。
その名声の陰に、マリアの助力があることを知る者はいなかった。
やがてジョバンニは、週の半分をマリアの部屋で過ごすようになった。ジョバンニには妻がおり、娘もいた。結婚生活はとうに冷え切っている、とジョバンニは苦笑いした。妻は演劇にも、ジョバンニの仕事にも興味を示さず、家庭には会話らしい会話もなかった。そんなジョバンニにとって、マリアと過ごす時間だけが、心の休まる場所になっていった。
ジョバンニはマリアの髪に触れ、「君を愛している」と囁いた。その言葉を聞くたびに、マリアの心は満たされた。
それからも世間は、ジョバンニ・ラットの才能を讃えた。だが、その脚本は全てマリアの書いたものだった。マリアの名が劇場の看板に載ることはなかった。それでも構わない、とマリアは思っていた。愛する人を助けられる。ジョバンニの栄光を、陰から支えられる。それだけで、十分な意味があるのだと。
窓からたまに星を眺めながら、マリアは物語を紡いだ。誰の目にも触れることのない自分の名前を、こっそりと原稿に入れた。ジョバンニの名前を入れたこともあった。それはマリアの小さな悪戯だった。
「先生は気付いてくれるかしら?」
ふと目をやると、隣の部屋はジョバンニが眠っていた。明日の朝には、マリアの書いた台詞をジョバンニは語ってくれるだろう。想像するだけで、マリアの頬がゆるんだ。
幸福とは何か? と誰かに問われれば、マリアはこう答える。
――愛する人の隣で、私の物語が観客の心を動かすのを見届けること。
王都には新作舞台の幕が上がるのを待つ観客がたくさんいる。
俳優たちが語る言葉のひとつひとつが、マリアの指先から生まれたことを、観客は知らない。




