第九話
北の山道、馬を止める者
その頃。
平家打倒の旗兵を挙げるべく、奥州への旅路を急ぐ一団があった。
馬の蹄の音が、硬い土を蹴る。
その先頭を行く黒馬の上で、若き武者――遮那王、のちの源義経は、突如として手綱を強く引き絞った。
ヒヒーン! と黒馬がいななき、前足を上げる。
「御曹司? いかがなされました」
周囲を固める郎党たちが、慌てて馬を止め、周囲を警戒する。敵の伏兵か、それとも平家の追っ手か。しかし、武者たちの鋭い五感をもってしても、周囲にはただ風が吹き抜ける音しか聞こえない。
だが、義経だけは違った。
彼は馬上で、まっすぐに南の空を見上げていた。その鋭い瞳が、激しく揺れている。
風の中に、混じっていた。
遥か遠く、時空の壁さえも突き破って届く、あの音。
龍笛の、音色。
最初は幻聴かと思った。しかし、間違えるはずがなかった。あの音は、かつて鞍馬の月夜、自分が血のにじむような練習を重ね、そして、隣の枝で「をとごろす」が喉を鳴らして音を合わせてくれた、世界で唯一つの共鳴の音だった。
(なぜだ……なぜ、あの笛の音が、今、ここから聞こえる……?)
義経の顔から、少年の面影が完全に消え去り、戦鬼のそれへと変わる。
「……をとごろす?」
その口から、かつて別れた「唯一の友達」の名が漏れる。
さらにもう一音。今度の音色は、冷たい雪と月の光、そして二人で分け合った山の幸の味を思い出させる、あまりにも優しく、悲しい音だった。あの時、をとごろすは「空から見ている」と言った。だが、この音は、あの笛は、今、確実に誰かの手によって吹かれている。
義経は迷わなかった。一瞬の躊躇もなく、馬の首を激しく反転させた。
「御曹司! どちらへ行かれるのですか! 都とは逆方向にございますぞ!」
家人が慌てて馬を並べ、叫ぶ。金売吉次も「遮那王どの、正気ですか!」と色をなした。
だが、義経は彼らを一瞥することさえしなかった。ただ、霧が立ち込める遥か南の山の向こうを見据え、言い放った。
「行かねばならぬ。俺を呼ぶ音がする」
黒馬の腹を激しく蹴り、義経は疾風のごとく山道を駆け降りていった。その後に続く郎党たちも、主君のただならぬ気迫に押され、混乱しながらもその背を追うしかなかった。




