第八話
鞍馬出奔、旅立ちの空
数日後の深夜。
鞍馬寺の東光坊から、影のように抜け出す二人の人影があった。
一人は、旅装束に身を包み、太刀を佩いた遮那王。もう一人は、奥州の商人気質を漂わせる金売吉次である。
「遮那王どの、急ぎましょう。夜明け前に関所を抜けねば、平家の追っ手がかかります」
「分かっている」
遮那王は懐の笛にそっと手を触れ、一度だけ、自分が過ごした鞍馬の奥の院の方向を振り返った。
山は静まり返っている。
かつて共に駆け回った相棒の姿は、どこにもない。
「行くぞ、吉次。奥州へ」
遮那王は前を向き、力強い足取りで山道を下り始めた。
彼らが山を降りていく様子を、遥か上空、雲の切れ間から見つめる、一羽の黒い鳥がいた。
をとごろすであった。
長老の言いつけ通り、彼はもう遮那王の前に姿を現すことはできない。直接、その敵を追い払うことも、その身を風で隠すことも許されない。
けれど。
をとごろすは、その三本の足をいっぱいに伸ばし、風の気流を捉えた。
(せめて、お前が進む道の風を、少しだけ優しくすることくらいなら……これくらいなら、神様も怒らへんやろ……)
をとごろすは翼を大きく広げ、遮那王が進む街道の先へ、先へと先回りするように飛び始めた。
まだ少し、飛ぶのは下手だった。突風にあおられて、空中で不器用にバランスを崩す。
けれど、その瞳には、かつてないほどに強い決意の光が宿っていた。
八咫烏としての禁忌を犯し、歴史の観測者であることを拒み、ただ「友達」のために空を飛び続ける。
この未熟な神使と、悲劇の英雄の「見えない旅路」が、今、洛北の山から世界へと広がっていく。
これが、のちに平家を震え上がらせる「一ノ谷の逆落とし」や「壇ノ浦の八艘飛び」といった、義経の“人間離れした超人的な跳躍”――すなわち、八咫烏が陰から風を操り、彼を支え続けたという「義経八咫烏伝説」へと繋がっていくのである。




