第七話
幼少期の別れ、笛の誓い
翌日の夜。
遮那王はいつものように、懐に笛を忍ばせて奥の院へとやってきた。
だが、その夜のをとごろすは、どこか様子が違っていた。いつもなら、遮那王の姿を見るなり「遅いやんけ!」と騒ぎ立てるはずが、静かに太い枝の上に止まり、じっと少年を見つめている。
「どうした、をとごろす。今日は静かだな。また飛びすぎて疲れたか?」
遮那王が笑いかけながら、いつものように右手を差し出す。
をとごろすは、その手を見つめた。
あの冷たい雪の夜、自分に温もりをくれた、世界で一番温かい手。
その手に乗りたい、頭を撫でてほしい、という猛烈な衝動を、をとごろすは必死に押し殺した。ここでその手に乗れば、この少年の未来を本当に濁してしまう。
をとごろすは、あえて羽を少し逆立て、冷たい声(カラスとしての鳴き声に近いもの)を出した。
「……遮那。うちは、もう行くわ」
遮那王の手が、空中でぴたりと止まる。
「行く? どこへだ」
「うちの、本来の場所や。うちももう、立派な大人の烏になった。長老たちから、常世の国へ戻って神使としての務めを果たせって言われたんや」
「……そうか」
遮那王の表情から、すっと温度が消えた。
彼は幼くして母(常盤御前)と別れ、兄たちとも離れ、この鞍馬山で「孤独」を骨の髄まで叩き込まれて生きてきた。信じていた存在が、ある日突然、自分の前から消えていく。その痛みには、誰よりも慣れているはずだった。
だが、をとごろすだけは違うと、どこかで信じていたのだ。
「お前も、俺を置いていくのだな」
遮那王の声は低く、かすかに震えていた。
「違う! 違うんや、遮那!」
をとごろすは、思わず大和訛りで叫びそうになるのを、必死に堪えた。
「うちは……うちは、お前の守り神やって言ったやろ。形は変わっても、うちはずっとお前を見てる。空から、ずっと……」
「空から見るだけなら、他人のカラスと同じだ。俺が欲しいのは、俺の横で、下手くそな羽ばたきで笑わせてくれるお前だ!」
遮那王が、これまでにない激情を露わにして一歩踏み出す。
その瞬間、をとごろすは大きく羽ばたき、手の届かない高い高い枝へと逃れた。
その羽ばたきは、八年前とは比べものにならないほど力強く、けれど、かつてないほどに悲しく乱れていた。
「……これ、持っていってな」
をとごろすがクチバシで突っついたのは、あの「笛」だった。
遮那王が、をとごろすと音を合わせるために、血のにじむような練習を重ねて吹けるようになった、あの竹の笛。
「お前がその笛を吹くとき、うちは必ず、風に乗ってお前の音を聴きに行く。だから……だから、悲しまんといて。お前は強い武士になるんやろ。平家を倒して、日本一の将軍になるんやろ」
「をとごろす……」
遮那王は、足元に落ちた笛を拾い上げた。
少年の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、鞍馬の冷たい土へと吸い込まれていく。
遮那王が人前で見せた、これが生涯で最後の「涙」であった。
「……分かった。俺は、もう泣かない。この笛を持って、俺は山を降りる」
遮那王は笛を強く握りしめ、二度とをとごろすを見上げることなく、踵を返して東光坊へと歩き去っていった。
その背中は、十六歳とは思えないほどに孤独で、そして冷徹な「源氏のプリンス」のそれへと変貌を遂げていた。
をとごろすは、去りゆく少年の背中を、ただ木の上から見つめていた。
クチバシの隙間から、小さな、小さな大和言葉が漏れる。
「バイバイ、遮那。うちの、たった一人の……お友達……」
その夜、鞍馬の山には、風の音に混じって、まるで泣き叫ぶような烏の鳴き声が、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。




