第六話
常世からの使者と、神話的禁忌
その夜、遮那王が寝所に引き取った後。
一人(一羽)で奥の院の巨木に残っていたをとごろすの前に、それは突然現れた。
音も、風もなかった。ただ、空間そのものがぐにゃりと歪み、月の光さえも吸い込まれるような「漆黒の闇」が、巨枝の上に凝縮した。
そこに現れたのは、をとごろすを遥かに凌ぐ、圧倒的な威容を誇る八咫烏であった。
その身体からは、現世のものではない神聖な気が立ち上っている。羽の一枚一枚が、まるで古代の青銅器のように重厚に光り、その中央に輝く三本の足は、大地の根を掴むかのように強固だった。
をとごろすは、その圧倒的な神気に圧され、思わず枝の上で身を縮め、平伏した。
「……長老……様……」
現れたのは、八咫烏の一族を束ね、常世の国と現世を繋ぐ役目を担う、高位の神使であった。その声は、耳ではなく、をとごろすの頭の中に直接、地響きのように響き渡った。
『をとごろすよ。お前がこの地に留まり、人間に深く関わり始めてから、すでに八年の月日が流れた』
「はい……うちは、遮那と……遮那王と一緒に――」
『黙れ』
一喝。その静かな怒りに、周囲の杉の葉が一斉に震え、バラバラと雪の残骸を落とした。
『八咫烏は、歴史の観測者である。神の使いたる者は、地を這う者たちの闘争に、決して荷担してはならない。空から見下ろし、ただ在るべき道を示すことのみが許された役目。それを、お前は何としたことか』
「うちは、ただ……」
『その人間に「をとごろす」という名を刻まれ、あまつさえ、その手から餌を受け取り、命を救われた。神の使いたるお前が、人間の「従属物」となるなど、神話の時代より続く禁忌中の禁忌。神使の誇りをどこへ捨て去ったのだ』
をとごろすは、喉を詰まらせた。
確かに、八咫烏の世界では、人間に直接干渉することは固く禁じられている。人間の歴史は彼ら自身の選択によって紡がれるべきであり、神使の介入は、天秤を大きく歪めてしまうからだ。
『あの少年――遮那王、のちの義経は、やがてこの国を揺るがす巨大な渦の中心となる。その宿命は、平家を滅ぼす輝かしい光であり、同時に、非業の死を遂げる無残な影でもある』
「非業の死……? 遮那が、死ぬんか!?」
をとごろすは思わず身を乗り出した。
『そうだ。それが彼の背負う、源氏の血の呪い。そして、もしお前がこれ以上、神の力をもって彼に干渉し続ければ、どうなるか分かるか?』
長老の濁った眼が、冷酷にをとごろすを射抜く。
『お前の過剰な干渉は、少年の宿命の歪みをさらに大きくする。お前が彼を守ろうとすればするほど、彼に下る天罰(因果の揺り戻し)は過酷になり、彼はより惨たらしく、より救いのない最期を迎えることになるだろう。お前がその男を愛おしむならば、今すぐその手を引き、彼の前から姿を消せ。それが、神使の、そしてお前の果たすべき唯一の慈悲である』
をとごろすの頭の中で、長老の言葉が爆音となって渦巻いた。
自分が傍にいることが、遮那王を、大好きな友達を、破滅へ追いやる。
神の力を安易に現世に持ち込んだ代償は、をとごろす自身の消滅ではなく、遮那王への「神罰」として下るというのだ。
「……そんなん、嫌や……。うちは、遮那を助けたいだけや……」
『ならば、去れ。二度と、その男の前に姿を現すな』
長老の姿は、陽炎のように消え去った。
後に残されたのは、ただ冷たい夜風と、自分の無力さに打ちひしがれ、震える小さな黒い鳥だけであった。




