第三話
宿敵の影
それから数日、をとごろすは東光坊の裏山に棲みつくようになった。
相変わらず飛行のセンスは壊滅的で、飛ぶたびに木々に激突しては、牛若に笑われていた。
しかし、二人の距離は確実に縮まっていった。牛若が寺の勤めの合間に持ち出す、干し柿や、厨房から少しだけ分けてもらった米の飯を、をとごろすは美味そうに突ついた。
だが、山は決して優しいだけの遊び場ではない。
自然の摂理と、弱肉強食の掟が支配する世界である。特に、未熟な幼鳥にとって、鞍馬山は敵に満ちていた。
ある日の夕暮れ。
牛若は、いつものように奥の院の開けた場所で、をとごろすが不器用に羽ばたくのを見ていた。
「ほら、をとごろす! もっと羽の根元から風を捉えるんだ!」
「言うのは簡単や! この三本目の足が、どうしても舵に引っかかるんやて……!」
をとごろすが地上から三メートルほど浮き上がった、その時だった。
上空の、さらに高い杉の梢から、一条の「灰色の矢」が放たれた。
音もなかった。ただ、圧倒的な殺気と、空気を切り裂く風切り音だけが遅れて響く。
「――をとごろす! 上だ!」
牛若の叫びと同時に、をとごろすも本能的な恐怖を察知した。しかし、彼の未熟な翼では、急激な方向転換など不可能だった。
空中を襲ったのは、一羽の巨大なオオタカ(蒼鷹)だった。
当時の武士たちが鷹狩りで最も重宝し、その鋭い爪と速さから「空の覇者」と恐れられた猛禽である。オオタカの濁った黄色い眼が、不格好に浮遊する黒い幼鳥を「格好の獲物」と定めていた。
「な、なんやこれ――ッ!?」
をとごろすの悲鳴。オオタカの鋼のような爪が、をとごろすの背に迫る。あと数寸で、その小さな身体は引き裂かれ、獲物として貪られるはずだった。
――ヒュッ!!
鋭い破空音が響いた。
オオタカの頭部、そのわずか数寸横を、猛烈な勢いで「何か」がかすめ飛んだ。
ドン、と激しい音がして、それは背後の杉の幹に深くめり込んだ。牛若が放った石礫であった。昼夜問わず、平家への憎しみを込めて投げ続けていた少年の石は、並の猟師よりも正確で、そして重かった。
「グルルッ!?」
不意の一撃に驚いたオオタカは、獲物を掴み損ね、体勢を崩した。
をとごろすはその隙に、文字通り「転がるように」地面の雪の中へと墜落した。
「二の矢、いや、二の石だ!」
牛若はすでに、第二の石を指に挟んでいた。少年の鋭い眼光が、オオタカを射抜く。その瞳に宿る凄まじい「戦気の輝き」に、百戦錬磨の猛禽であるオオタカの方が、一瞬気圧された。人間の子どもではない――猛獣のそれであると、野生の勘が告げたのだ。
オオタカは低く鳴くと、大きく羽ばたき、獲物を諦めて夕闇の空へと消えていった。
「……はぁ、はぁ……」
牛若は息を整え、すぐに雪の中に駆け寄った。
「をとごろす! 大丈夫か!?」
雪をかき分けると、そこには、全身をぶるぶると震わせ、完全に縮こまった小さな黒い塊があった。怪我はなさそうだが、恐怖で羽が完全に硬直している。
「……怖かった……めちゃくちゃ、怖かったわ……」
をとごろすの声は、これまで聞いたこともないほど小さく、泣きそうだった。
牛若は、そっとをとごろすを両手で包み込んだ。自分の胸の裡に抱き寄せ、冷え切った鳥の身体に、自らの体温を分け与える。
「もう大丈夫だ。俺が仕留めてやった。お前は俺の友達だからな。俺が、絶対に守ってやる」
少年の温かい胸の中で、をとごろすの震えが次第に収まっていく。
心臓の音が、二つの異なる生き物の鼓動が、雪の静寂の中で重なり合っていた。
八咫烏が、人間に命を救われた。
それは神話の時代から続く「神と人」の力関係が、完全に逆転した瞬間でもあった。この日を境に、をとごろすの中で、牛若は「ただ惹かれる人間」から、「生涯をかけて守るべき唯一の存在」へと変わっていく。




