第二話
烏の鳴く山(邂逅と命名)
雪の平家、月の源氏
承安元年(一一七一年)の冬。洛北・鞍馬山は、容赦のない白に閉ざされていた。
都を支配する平家の権勢は、今や絶頂を迎えようとしている。その裏で、かつて平治の乱で敗れ去った源氏の遺児――遮那王、のちの牛若丸は、この雪深い山寺の東光坊に預けられていた。
数えで十二歳。昼は経を読み、夜は冷え切った堂宇で、己の血筋という名の見えない檻に囚われながら過ごす日々。
彼にとって世界は、冷酷な平家の色である「赤」と、それを覆い隠す鞍馬の「白」だけで構成されていた。
その夜は、奇妙なほどに月が冴え渡っていた。
寝所を抜け出した牛若は、素足に草履を引っ掛け、誰もいない奥の院へと続く杉木立を歩いていた。
手には、昼間のうちに拾い集めておいた、握り拳ほどの礫がいくつか握られている。
平家への復讐、あるいは見知らぬ父への思慕。行き場のない熱量を、少年はただ闇に向かって石を投げることでしか発散できなかった。
「……あ、痛ッ!」
静寂を破ったのは、およそこの世のものとは思えない、奇妙にひっくり返った声だった。
人間の子どもの声ではない。かといって、鞍馬山に棲む天狗の眷属の鋭い声でもない。
牛若が足を止め、月光が差し込む杉の巨木の根元に目を凝らす。
そこには、奇妙な生き物が転がっていた。
真っ黒な羽毛。しかし、まだ産毛が混じっているのか、全体的にぼさぼさに膨らんでいる。
体躯はカラスのそれだが、何より奇妙なのは、その腹の下から、あきらかに三本の足が不器用に突き出ていることだった。
「な、なんやねん……この風、めちゃくちゃ冷たいやんけ……」
鳥が、喋った。
しかも、その言葉には、都の洗練された言葉遣いとは程遠い、どこか泥臭く、のんびりとした響きがあった。大和国――奈良の訛りである。
「お前……鳥のくせに、喋るのか?」
牛若が声をかけると、その黒い塊は「ひゃっ!」と短い悲鳴を上げて飛び上がった。否、飛び上がろうとした。
羽を激しく羽ばたかせるものの、その軌道は目も当てられないほどに歪んでいる。三本の足が互いに邪魔をし合っているのか、あるいは単純に羽の力が足りないのか、鳥は数メートルも浮き上がらないうちに、ごうと吹き付けた冬の突風にあおられた。
「わわわ、止まれへん、止まれへんて――!」
どすん、と鈍い音がして、鳥は目の前の太い杉の枝に正面から激突した。
そのまま、まるで折れた枝のように雪の上へと真っ逆さまに落ちていく。
「ははははは!」
牛若は思わずお腹を抱えて笑い転げた。それまでの胸のつかえが、一瞬で吹き飛ぶような不格好さだった。
「お前、鳥のくせに飛ぶのが下手だな!」
「な、何笑うてんねん!」
雪の中から這い出てきた鳥は、全身の羽をぶわっと逆立て、怒りをあらわにした。
「うちはこれでも、誇り高き……高き、その……。とにかく! 生まれたてはみんなこんなもんや! ちょっと風が強すぎただけや!」
「生まれたて? その割には態度が大きいな。ほら、おいで」
牛若は屈み込み、その小さな黒い生き物に向かって、そっと白い右手を差し出した。
本来、神の使いたる八咫烏は、人間の前に姿を現すことすら稀である。
現れたとしても、それは国を導く一筋の光、あるいは不可侵の超越存在としてだ。だが、この目の前にいる鳥には、神聖さなど微塵もなかった。あるのは、ただの「未熟」と、人間に対する隠しきれない好奇心だけだった。
鳥は、差し出された少年の手をじっと見つめた。人間の肌の温もりが、冷え切った空気の中に立ち上っている。
鳥は、まだ自分たちの世界に伝わる「人間に深く関わってはならない」という絶対の禁忌を知らなかった。ただ、目の前の少年が放つ、孤独だが強靭な光に、強烈に惹かれてしまったのだ。
三本の足が、おそるおそる牛若の掌の上に乗る。
爪はまだ柔らかく、肉指を傷つけることもない。
「お前、名前は?」
牛若が尋ねる。
「名前? そんなん、まだないわ。うちの郷では、一人前にならんと立派な名はもらわれへんのや。
今はただ……そう、おじいたちからは『をとごろす(幼い転び者)』ってからかわれてたけどな」
「をとごろす」
牛若はその響きを口の中で転がした。粗削りで、泥臭くて、けれどどこか力強い。
「よし、決めた。お前の名は『をとごろす』だ」
「えっ、それ、うちは嫌や言うて――」
「俺が呼ぶのだから、をとごろす、だ。俺は遮那王。よろしくな、をとごろす」
少年は、それが神の眷属を縛る「名付け」という行為であることも、目の前の鳥がいつか歴史を陰から支えるべき八咫烏の血を引いていることも知らなかった。
ただ、鞍馬の冷たい闇の中で、初めて見つけた「対等な友達」として、その名を呼んだのだ。




