第十二話
亀岡からの迂回、永い日長の進軍
木曾義仲を討った義経の軍勢に、休息の時間は与えられなかった。
次なる敵は、西国へ落ち延びた平氏の本陣――一ノ谷。
しかし正面から福原へ向かえば、平家が築いた堅固な防衛線と伏兵網に絡め取られることは明白だった。
「御曹司。ここは丹波路へ迂回なされませ」
進言したのは佐々木定綱、経高、兄弟であった。
「亀岡から北西へ抜け、三田へ向かう山道を進めば、平家の目を避けて背後へ回り込めましょう」
義経は静かに頷いた。
「戦わずして進む。今は兵を疲れさせぬことが肝要だ」
軍勢は進路を北西へ転じた。
山々に囲まれた丹波路。 雪解けのぬかるみを踏みしめながら、兵たちは地元の村々で米や干し肉を調達しつつ、一歩ずつ西へ向かう。
それは華々しい進軍ではなかった。
ただ黙々と歩み続ける、忍耐の行軍である。
そのはるか上空。
雲と霧の狭間を、一羽の黒い影が旋回していた。
をとごろすだった。
彼は義経の軍勢のはるか先を飛び、山道を見渡していた。
崩れかけた斜面はないか。 伏兵の気配はないか。 馬が足を取られる沢はないか。
をとごろすは風を使った。
危険な谷へ向かおうとする馬の鼻先へ、そっと横風を送る。
安全な尾根道には、追い風を流す。
兵たちは気づかない。
ただ何となく歩きやすい道を選び、何となく馬が進みたがる方へ従うだけだった。
(こっちやったら大丈夫や。みんな疲れてるんやから、これくらいは許してな……)
神話の禁忌を破るほどの介入ではない。
ただ、大切な友の軍勢が無事に進めるよう、少しだけ風向きを変える。
それが今のをとごろすにできる精一杯だった。
義経は、上空を旋回するをとごろすを見つめた。
彼は義経の軍勢よりも遥か前方を飛んでいた。
そして。
長い行軍の果てに。
平家にその存在を悟られることなく。
兵を大きく失うこともなく。
静かに。
確実に。
三田の平地へと辿り着いたのである。
その時だった。
風が変わった。
をとごろすの黄金色の瞳が見開かれる。
風の中に。
混じっていた。
あり得ないはずの音が。
遥か遠く。
時空の壁さえも突き破って届く
音。
笛。
それは鞍馬の月夜を思い出させる音だった。
雪。
杉木立。
幼い遮那王。
そして二人で過ごした日々。
忘れられるはずのない記憶。
その音色が今、この西国の空に響いている。




